ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』

 われわれが話題にする書物は、「現実の」書物とはほとんど関係がない。それは多くの場合〈遮蔽幕(スクリーン)としての書物〉でしかない。工ーコの小説の例は、本書で挙げる他のどんな例よりも雄弁にこのことを物語っている。あるいは、こう言ったほうがよければ、われわれが話題にするのは書物ではなく、状況に応じて作りあげられるその代替物である。
 アリストテレスの問題の書物は、たんに物質面からいっても、かなりヴァーチャルな書物である。というのも、ホルへもウィリアムもこの本を本当に知っているわけではないからだ。何年も前から視力を失っているホルへは、この本の内容を思い出すことができるだけである。しかもその記憶は妄想によって歪められている。一方、ウィリアムは、この本を大慌てで流し読みするだけである。それ以外はもっぱら自分がいだいたイメージに頼っている。このイメージが不確かであることは先に見たとおりである。二人の各々が、独自の内的プロセスを経て、ひとつの想像上の書物を作りあげているのである。 つまり二人は同じ書物について語っているのではないのだ。
 こうしてこの書物の自己投影的性格はいやがうえにも強まる。それは二人の幻想を受け止める器となるのである。ホルへにとってこの本は、教会の諸問題を前にした自分の不安の口実である。ウィリアムはこの本のなかに、信仰についての自分の相対主義的な考えかたを正当化してくれる要素を見ている。このように、二人の幻想はとうてい一致しようがない。二人のどちらも本当には本を手にしていないのだからなおさらである。
 われわれが話題にする書物はすべて〈遮蔽幕(スクリーン)としての書物〉であり、この無限の書物の連鎖のなかでの一つの代替要素である。このことを理解するには、われわれが子どものときに好きだった本を「現実の」本と比べてみるだけで十分だろう。そうすれば、書物についてのわれわれの記憶、とくに自分の分身といえるほど大事に思われた書物の記憶が、われわれがその時々に置かれている状況と、その状況が内包する無意識的価値によって、いかに不断に再編成されているかが分かるはずである。
 書物そのものではなく、われわれが書物について知っていること、あるいは知っていると思っていること、さらには書物について取り交わす言葉――それらが重要になるのは、書物がもつこの〈遮蔽幕(スクリーン)としての書物〉としての性格のためである。われわれの書物についての言説の大部分は、じつは書物について発せられた他の言説に関するものであり、これもまたさらに別の言説に関するものであって、この連鎖には際限がない。そして僧院の文書館は、書物が言語の背後に消えてしまうこの入れ子状になった諸々の言説の明快なシンポルである。なぜならそれは典型的な無限の注釈(コメント)の場だからだ。
 これらの言説のなかには、われわれが自分自身にたいして発する言説も含まれるということも忘れてはならない。なぜならこの言説も、われわれを書物から隔て、われわれを守るという点では他人の言説と同じだからである。われわれは、本を読みはじめる瞬間から、いや読む前から、われわれのうちで、また他人とともに、本について語りはじめる。そしてそのあとわれわれが相手にするのは、現実の本ではなく、これらの言説や意見なのである。現実の本は遠くに追いやられ、永遠に仮定的なものとなるのだ。

 工ーコにおいて書物は、ヴァレリーのとき以上に、われわれがあいまいに語る、不確かな対象、われわれの幻想と錯覚が不断に干渉する対象となる。無限の境界をもつ図書館のなかに置かれ、見出すことのかなわなかったアリストテレスの『詩学』第二部は、われわれが、読むと読まざるとにかかわらず、生涯をつうじて語りつづける書物の多くに似ている。それは再構成された書物であり、原本はもはや遠く、われわれの言語と他人の言語との背後に隠れてしまっている。たとえ命の危険を冒す覚悟があっても、いつかそれに手を触れる日が来るだろうと思ってはならない。
 したがって、読んでいない本について著者自身の前でコメントしなければならない状況にある人間に与えられるアドバイスはただひとつ、とにかく褒めること、そして細部には立ち入らないこと、これである。作家は自分の本についての要約や詳しいコメントなどまったく期待していない。それはむしろしないほうがいい。作家がもっぱら望んでいるのは、作品が気に入ったと、できるだけあいまいな表現で言ってもらうことなのである。
 読書にたいする警戒心を表明したワイルドの著作のうち、もっとも重要なものは「芸術家としての批評家」と題された著作である。――二部構成の対話の形で書かれたこの文章には、アーネストとギルバートという二人の人物が登場するが、著者の独創的な意見をはっきりと代弁しているのはギルバートの方だと考えられる。
 ギルバートはまず、古代ギリシアのような芸術の最盛期には芸術批評家はいなかったというアーネストの意見に異を唱える。そして、その反証としてアリストテレスの『詩学』のような例を挙げ、ギリシア人にとって創作は芸術に関する一般的考察と切り離せなかったのであり、創作家はすでに批評家の役目を果していたと主張する。
 この主張が導入となって、ギルバートは自説を展開するのだが、彼によれば、芸術創造と批評はじつは互いに切り離せない、不可分の活動である。


アーネスト ギリシア人は、きみの指摘したとおり、芸術批評家の国民だった。それは認めてもいい。でも少し可哀そうな気もする。だって想像力のほうが批評カより高尚な能力だから。比べものにならないくらいね。
ギルバート 両者を対立させることに確たる根拠はないさ。批評能力なくして芸術作品と呼ぶに足るようなものはありえないからね。きみはさっき、芸術家がわれわれのために人生を表現して、それに瞬間的な完璧さを与える、そのためのすぐれた選定の精神と精妙な選択本能について話したけど、その選定の精神、その明敏な省略の手管こそ、じつは批評能力のもっとも特徴的な情態のひとつなんだ。この批評能力をもたない者は、芸術において何ひとつ創造できない。

 このように、ギルバートにとっては、芸術的創造と批評のあいだに区別はなく、またギリシア人の例が示すように、偉大な創造というものはつねにその内に批評を含んでいる。しかも逆もまた真なり。つまり批評も一種の芸術である。

アーネスト きみは創造精神の本質的な一部分としての批評について語ってくれたわけだが、ぼくも今はすっかりきみの理論を認めるよ。しかし創作と無関係な批評というものはどうなんだ? ぼくには雑誌を読むという愚かな習慣があるんだが、現代の批評は大抵まるでつまらん気がするね。

 ギルバートは、この「つまらない」という非難にたいして批評家を擁護しつつ、批評家のほうが彼らが批評する作品の作者よりはるかに教養があり、批評のほうが創作より無限に多くの教養を必要とすると断言する。最初の非読礼讃が見られるのは、この批評擁護の場面においてにほかならない。

ギルバート 批評家は批評を頼まれた作品を通読していないっていわれることがあるけど、もちろん通読なんかしないよ。少なくともすべきじゃない。そんなことしたら手のつけられない人間嫌いになってしまうだろうからね。〔……〕それにそんなことをする必要もない。ワインの銘柄や品質を知るのに一樽ぜんぶ飲みほす必要はないだろう。ある本に何らかの価値があるかどうかを知るには半時間あればじゅうぶんだ。いや、形式をつかみとる本能がある人間なら、十分もあればじゅうぶんだろう。退屈な本をだれが読み通したいなどと思う? ちょっと味見してみる、それでじゅうぶんだ。じゅうぶんすぎるくらいだと思うね。

 以上のように、ある本のことを知るには一〇分あればじゅうぶんだ――いや、ギルバートによれば批評家は批評を依頼された作品を読まないのだから、一〇分すら要らない――という主張は、批評家擁護の文脈で現われる。批評家はその教養のおかげで作品の本質をすばやく察知することができるからというのがその理山である。つまり非読は、専門家にのみ「できる」こと、すなわち本質をとらえる特殊な能力の問題だとされているのであって、その意味でここではいくらか副次的かつ派生的に言及されている。ところが、これに続く部分では、それは「すべき」ことでもあり、逆に批評家が批評対象とする本を読むのにあまり時間を費やすことには真のリスクがともなうという意味のことが述べられる。別の言いかたをすれば、本との出会いにおいては時間だけが問題となるわけではないと言われるのである。

 ワイルドの文章において、芸術と批評の絡み合いについての議論のあとに来るのは、なるほど、よりはっきりとした、読書にたいする紛れもない不信感の表明である。
 ギルバートは、批評擁護の延長上で、あるものについて語るのは、それをすることよりも難しいと述べ、まずその例を歴史にとって、古代の英雄の偉業を謳った詩人たちは英雄たち自身よりえらいと説く。行為は「それを生み出す衝動とともに止んでしまう」、それは「事実への卑しい譲歩」であり、「この世は夢みる者のために詩人によって作られたのだ」と説くのである。
 アーネストが、これにたいして、詩人をそんなに持ち上げたら、その分だけ批評家を低く見ることになるだろうと言い返すと、ギルバートは芸術としての批評という自論に立ちもどって、次のように言う。

 批評はそれ自体ひとつの芸術なんだ。そして芸術創作が批評能力のはたらきを含んでいて、それなしではまったく存在しえないのと同じで、批評もじつは言葉の最高の意味において創造的なんだ。批評は結局のところ創造的であると同時に独立的なんだよ。

 ここで重要なのは「独立的」という観念である。なぜならそれは、批評活動をそれが通常閉じ込められている二次的で屈辱的な役割から解放し、それに真の自律性を付与することで、文学ないし芸術から引き離すものだからである。

 そう、独立的なんだ。批評は、詩人や彫刻家の作品と同じく、模倣や類似といった低い基準で判断されるべきじゃない。批評家は、自分の批評する芸術作品にたいして、芸術家が形態や色彩の目に見える世界、もしくは情熱や思想の目に見えない世界にたいするのと同じ関係を占めている。自分の仕事を完璧ならしめるのに最良の材料が要るわけでもない。何でだって間に合わせるんだ。

 批評家にコメントされる作品は、したがって、まったくつまらないものであってもかまわない。だからといって批評ができないわけではないのである。というのも、作品は口実にすぎないからだ。

 ギュスターヴ・フロべールがルーアン近くの寒村ヨンヴィル=ラベイのけちな田舎医者の愚かしい妻のうすぎたない感傷的な情事から一篇の古典を書き上げて、文体の傑作を生むことができたように、真の批評家は、今年、いや毎年きまって王立美術院に出品される絵だの、ルイス・モリス氏の詩だの、オーネ氏の小説だの、ヘンリー・アーサー・ジョーンズ氏の劇だのといったような、ほとんど意味のない主題から、もし自分の考察力をそんなものに向けるか消費する気さえあれば、間然するところなく美しく、精妙な知性に満ちているような評論を生み出すことができる。それでどうして悪いんだ? 鈍重は才気にとってつねに抗しがたい誘惑であり、愚鈍は知恵をその洞穴から呼び出す不変のベスティア・トリオンファンス〔勝ち誇る獣〕なのだ。批評家くらい創造的な芸術家にとって、主題など何の意味がある? まさに小説家や画家にとってと同様、何の意味もない。批評家もいたるところでモチーフを見つけることができる。それをどう扱うかが大事なんだ。暗示や挑戦を内に含まないようなものはこの世に何ひとつない。

 ワイルドが挙げている例のうち、もっとも意味深長なのはおそらくフロべールの例だろう。フロべールは「何についてでもない本」を書くと豪語し、じっさいヨンヴィルの住人を登場人物とする本を書いた。それが『ポヴァリー夫人』である。フロべールはリアリズムの作家だと言われることが多いが、この呼称が示唆するところとは裏腹に、彼にとって文学は、現実世界にたいして自律的で、したがってそれ自身の法則に従うものである。つまり文学は、たとえその背景には現実が残るとしても、現実を気にかけない。文学はおのれの一貫性を自身のうちに見出さなければならないのである。
 ワイルドは作品と批評とを結ぶ絆を完全には否定しないが、その絆はモチーフのレベルにとどめられた、かなり緩い絆である。批評テクストの評価はこのモチーフをどう扱うかにかかっているのであって、それにいかに忠実かが問われるわけではない。批評対象のこの副次的性格は、批評を、現実世界を口実としてしか用いない芸術に近づける。それはまた、芸術作品が現実を扱うように芸術作品を扱う批評の優位性の根拠でもある。
 こうした見地からいえば、批評というものは、フロべールにとっての小説が現実についての小説ではないのと同様、作品についてなされるものではないといえる。私が本書で問題にしたいと考えたのはまさにこの「ついて」である。それはこれを忘れることにともなう罪悪感を少しでも軽くするためである。一冊の本を読むのに一〇分しか費やさないというのも、この前置詞を決然と遠ざけるためである。批評はこうして自己自身と、すなわちおのれの孤独と向き合うことになる。しかしそれは、幸いにも、自己の創意工夫の能力と向き合うことでもある。

 このように、批評家にとって文学ないし芸術は、作家や画家にとって自然がそうであるように、二次的なポジションに置かれる。文学や芸術の役目は、批評の対象となることではなく、批評家に書くことを促すことである。というのも、批評の唯一にして真なる対象は、作品ではなく、自分自身なのである。
 批評と読書のワイルド的概念は、なるほど、そこに創造主体を位置づけなければ何も理解できない。創造主体はそこではじつは最前列を占めるのである。

 最高の批評は、個人的な印象のもっとも純粋な形式だから、ある意味で創作よりももっと創作的だとすらいえるかもしれない。どんな外的な対象ともかかわりをもたず、それ自身のうちに自己の存在理由をもつのだからね。それは、ギリシア人ならそう言うだろうが、それ自身において、またそれ自身にとって、ひとつの目的なんだよ。

 極端にいえば、批評は、作品ともはや何の関係ももたないとき、理想的な形式にたどり着く。ワイルドのパラドックスは、批評を自己目的的な、支える対象をもたない活動とした点にある。というより、支える対象をラディカルに移動させた点にある。別の言いかたをすれば、批評の対象は作品ではなく――フロべールにはどんなブルジョワ田舎女でもよかったように、どんな作品でも間に合うはずなので――、批評家自身なのである。

 いまの作家や芸術家は、自分たちの二流作品についておしゃべりするのが批評家の第一の職能だと考えているらしいが、ぼくには連中のばかげた虚栄心が可笑しくってね。

 こうして、制約を課すものでしかない作品と手を切った批評は、結局、主体というものをもっともはっきりと前面に押し出す文学ジャンル、すなわち自伝に近いものとなる。

 じつのところ、最高の批評は魂の声にほかならない。それはもっぱら自己だけを対象としているから、歴史よりも魅力的だ。それに主題が具体的であって抽象的でなく、リアルであって曖昧ではないから、哲学より楽しい。それは唯一の洗練された形式の自伝なのだ〔……〕

 批評は魂の声であり、批評の深層における対象はこの魂であって、文学作品ではない。作品はこの探求を支える過渡的な対象であるにすぎない。ヴァレリーの場合と同様、文学作品はワイルドにとってもひとつの障害である。しかしその理由は同じではない。ヴァレリーにとって、作品は偶発的現象でしかなく、それは文学の本質をつかむ妨げとなる。一方ワイルドによれば、作品は、批評実践の存在理由そのものである主体からわれわれを遠ざける。ただ、いずれにとっても、よい読みかたというのは、作品から目を背けることである。

 自分自身について語ること――これがワイルドが見るところの批評活動の究極のねらいである。批評を作品の影響力から守り、このねらいから遠ざからないようにするため、すべてはこの見地からなされねばならない。
 こうして、ワイルドの観点からすれば、口実に格下げされた文学作品は(「批評家にとって芸術作品は、彼自身の新しい作品への示唆にすぎず、それは必ずしもそれが批評するものと明白な類似を有するには及ばない」)、気をつけていないと容易に障害に変わってしまう。それは、たんに同時代の作品に見るべきものがほとんどないからではなく――偉大な作品の場合も事情は同じである、注意を傾けすぎて、批評家自身の関心事を蔑ろにしがちな読書というものは、彼を自分自身から引き離しかねないからである。批評活動の正当性の根拠は批評家自身についての考察にあるのであって、それのみが批評を芸術のレベルに押し上げるのである。
 作品と距離をとることは、したがって、ワイルドの読書と文学批評についての考察のライトモチーフである。彼のかの挑発的な言い回しはそこから来ている。「私は批評しないといけない本は読まないことにしている。読んだら影響を受けてしまうからだ」挑発的だが、彼の著作の大部分を言い当てた表現にほかならない。書物というものは、それを読む批評家の思考をつき動かすこともあれば、彼のうちにあるもっとも独創的なものから彼を遠ざけることもある。ワイルドのパラドックスは悪書のみにかかわっているわけではない。良書の場合はなおさら有効である。批評をするために書物のなかに踏み入ることにともなうリスクは、もっとも私的なるものを失うことである。それは建前上は書物じたいのためであるが、そこで儀牲にされるのは批評家自身なのである。
 読書のパラドックスは、自分自身に至るためには書物を経由しなければならないが、書物はあくまで通過点でなければならないという点にある。良い読者が実践するのは、さまざまな書物を横断することなのである。良い読者は、書物の各々が自分自身の一部をかかえもっており、もし書物そのものに足を止めてしまわない賢明さをもち合わせていれば、その自分自身に道を開いてくれるということを知っているのだ。われわれがヴァレリーや、ロロ・マーティンズや、私の学生たちの一部といった、じつに多様で、ひらめきに満ちた読者のうちに見たのも、この種の横断にほかならない。彼らは、あいまいな知識しかもたない、あるいはまったく知らない作品の部分的要素をとらえて、もっぱら自己本来の考察に身を投じ、そうして自己を見失わないよう意を用いたのである。
 もしわれわれが、本書で分析してきたような多様で複雑な状況において、重要なのは書物についてではなく自分自身について語ること、あるいは書物をつうじて自分自身について語ることであるということを肝に銘じるなら、これらの状況を見る目はかなり変わってくるだろう。なぜなら、いまや重視すべきは、何らかのアクセス可能な与件を出発点とした、作品と自分自身とのさまざまな接触点だということになるからである。その場合、作品のタイトル、〈共有図書館〉における作品の位置、作品を語って聞かせる人間のパーソナリティー、そのときの会話やテクストのやりとりのなかで生み出される雰囲気など、数多くの要素が、ワイルドのいうロ実として、作品にさほど拘泥することなく自分自身について語ることを可能にするはずである。
 というのも、作品はいずれにしても言説のなかで姿を消し、つかのま現われる幻覚の対象に場所を譲るのである。後者こそは、あらゆる投射を引き寄せ、さまざまな介入に応じて不断に変容してゆく幻影としての作品にほかならない。であってみれば、作品を自己についての探究のよすがと捉え、手にすることのできる数少ない要素から出発して、またそれらの要素がわれわれの親密でかけがえのない部分について教えてくれることに目を配りながら、自分の〈内なる書物〉の断章を書くよう試みるにしくはないのである。耳を傾けるべきは自分自身にたいしてであって、「現実の」書物にではない。後者がときにモチーフとして役立つことがあってもである。そして自分を書くことに専心し、そこから注意を逸らされないよう気をつけなければならない。
 このことは、話したり書いたりするコンテクストの各々において、それに適した書物を創造しなければならないということでもある。この創造は、主体の真実に支えられており、その内的世界の延長上に位置づけられるだけになおさら信頼に値する。怖れるべきは、素材とする作品を裏切ることではなく、自分自身を裏切ることなのである。ティヴ族の人々が、自分たちとは表面上まったく異質なシェイクスビアの『ハムレット』について物怖じせずにコメントできたのは、自分たちの父祖伝来の信念が疑問に付されていると強く感じたためである。それで彼らは、自分たちが創り出した〈幻影としての書物〉につかのま生命を吹き込むことができたのである。

 このように、読んでいない本についての言説は、自伝に似て、自己弁護を目的とする個人的発言の域を超えて、このチャンスを活かすすべを心得ている者には、自己発見のための特権的空間を提供する。この言説状況において、現実世界を指示するという制約から解き放たれた言語は、書物を横断する過程で、通常われわれが掴まえられないものについて語る手段を見つけることができる。
 それだけではない。読んでいない本についての言説は、この自己発見の可能性をも超えて、われわれを創造的プロセスのただなかに置く。われわれをこのプロセスの本源に立ち返らせるのである。というのも、この言説は、それを実践する者に自己と書物が袂を分かつ最初の瞬間を経験させることによって、創造主体の誕生に立ち会わせるからである。そこでは読者は、他人の言葉の重圧からついに解放されて、自己のうちに独自のテクストを創出する力を見出す。こうして彼はみずから作家となるのである。

 みずから創作者になること――本書で私が一連の例を引きながら確認してきたことが全体としてわれわれを導く先は、この企てにほかならない。これは、内なる歩みによってあらゆる罪の意識から自由になった者がアクセスできる企てである。
ワイルドが示しているように、読書と創造のあいだには一種の二律背反が見られるのであって、あらゆる読者には、他人の本に没頭するあまり、自身の個人的宇宙から遠ざかるという危険があるのだ。読んでいない本へのコメントが一種の創造であるとしたら、逆に創造も、書物にあまり拘泥しないということを前提としているのである。
 本は読書のたびに再創造されるということを学生に教えることは、数多くの困難な状況から首尾よく、また有益なしかたで脱する方法を彼らに教えることである。というのも、自分の知らないことについて巧みに語るすべを心得ているということは、書物の世界を超えて活かされうることだからである。言説をその対象から切り離し、自分自身について語るという、多くの作家たちが例を示してくれた能力を発揮できる者には、教養の総体が開かれているのである。
 わけてももっとも重要なもの、すなわち創造の世界が開かれている。われわれが学生たちにできる贈り物として、創造の、つまり自己創造のさまざまな技術にたいする感受性を養うことほど素晴らしい贈り物があるだろうか。あらゆる教育は、それを受ける者を助け、彼らが作品にたいして十分な距離をとり、みずから作家や芸術家になることができるよう導くべきだろう。




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