バルザック『ゴリオ爺さん』

 さて、人生の十字路で、選べる道といったらまずこんなものだ。だから、きみ、選びたまえ。いやきみはもうとっくに選んだのだ。きみは従姉のポーセアン夫人のところに行き、贅沢の匂いをかいできた。きみはゴリオ爺さんの娘、レストー夫人のところに行きパリ女の匂いをかいできた。あの日、帰ってきたきみは額にひとつの言葉を刻みつけていた。その言葉を、わしは〈立身出世〉と読んだぜ。万難を排して立身出世か。よかろう。これこそわしの眼鏡にかなう好漢だ、とわしは思ったものだ。きみには金が入用だった。どこで工面するか。きみは妹たちの生血をしぼった。男の兄弟なんてものは、多少とも姉や妹の金をくすねるものなんだな。なにしろ五フラン銀貨より栗の実のほうが多いっていう田舎で、きみの千五百フランがどうやって調達されたものやら、神のみぞ知りたもうだが、その千五百フランだって、略奪に出かけていく兵隊みたいにあっという間に姿を消してしまうんだぜ。そのあとはどうするつもりかな。働くのかね。働くといったところで、きみがいま考えているような仕事なら、ポワレ程度の能力の人間で、年取ってヴォケェ工館あたりに一部屋を獲得するのがせいぜいというところだね。手っ取り早く出世すること、こいつはきみのような境遇にいる五万人ほどの青年が、目下解決しようとやっきになっている問題さ。きみはこの五万人のうちの一人に過ぎんのだよ。しなけりゃならん努力というもの、闘争のすさまじさというものをひとつ考えてみることだ。いい地位が五万人分もはない以上、壺のなかの蜘蛛みたいにたがいに食いあうしかないじゃないか。パリではいったいどうやって、みんなおのが道を切りひらくのか、きみは知っているかね。天才の輝きか、さもなければ上手に堕落することによってなのさ。人間のこの巨大なかたまりのなかにはいっていくには、大砲の弾丸みたいにぶつかっていくか、さもなけりゃあベスト菌みたいにこっそり忍びこむしかないんだな。正直なんてものはなんの役にもたちはせん。世間は天才の力には屈服するが、しかし天才を憎み、それを誹謗するものだ。なにしろ天才は、分け前を分配もしないで自分で一人占めにしちまうからな。しかし天才がもしもあくまで頑張るなら世間は屈服する、つまりひと言でいえば、世間は、天才を泥の下に埋めさることができない場合には、ひざまずいて崇拝するのさ。堕落はいたるところに幅をきかせているが、才能はまれだ。こういうわけで堕落は、むらがりあふれるぼんくらどもの武器なんだ。いたるところでその武器の切っ先をきみは感ずることができるだろう。亭主のほうはあとにも先にも六千フランこっきりの年俸しかないのに、女房のほうはお化粧代に一万フラン以上も使っている。かと思うと、年俸千二百フランの下っ端役人が地所を買ったりする。ロンシャン(ブーローニュの森の中の散歩道)の中央車道を通る権利のある貴族院議員の馬車に乗せてもらいたいばかりに、身を売るような女もいる。きみも見て知っているだろうが、かわいそうにゴリオ爺さんのばかは、娘が裏書きした手形を払わざるをえなかったんだが、娘の亭主には五万フランの年収があるんだぜ。地獄の陰謀に出っくわさずにパリを二歩でも歩けるかどうか、歩けるものならお目にかかりたいね。
 どの女でもいい。きみのお気に召した一人目の女とつきあってみたまえ。たとえ金があって若くて美人だろうと、きみはとんだ罠に落ちこむことになるよ。嘘だと思うんなら、わしの首と、そこのサラダの根っことを引きかえに、賭けてもいい。世間の女というものはどいつもこいつもみんなたくみに法の掟をくぐり、なにかにつけて夫と争っているのさ。女が、情人のため、衣装のため、子供のため、家庭のため、あるいは虚栄のため(ただし美徳のためなんてことはまずないね。こいつは確かだ)、どんな手練手管を弄しているか、きみにいちいち説明するとなったらきりがないよ。だからね、真っ正直な人間てえのはみんなの敵なんだ。だが正直者ってのはいったいどんな人間だと思う? パリでは、それはつまり黙っていて、分け前にあずかるのをいやがる人間のことなのさ。わしは、酬われることもないのに、いたるところでつまらん仕事をやっているあの奴隷どものことを言っているんじゃないぜ。わしは、あの連中のことは、神様の古靴同盟と称することにしているんだ。もちろんそこには美徳がある。愚鈍の花に飾られてね。しかしそこには貧困もあるのさ。もしも神様が悪ふざけをして、最後の審判の日に欠席されたらどうなるんだろう。わしはいまからでも、あの連中のしょげかえった顔が目に見えるような気がするね。だから、もしきみが、たちまちのうちに出世したいと思うんなら、すでに金があるか、さもなけりや金のあるふりをすることだ。金持になるためには、一か八かの大芝居を打たなきゃだめだ。さもなければけちけち暮らすしかないね。ご苦労さまだ! きみがたずさわりうる百ばかりの職業のなかで、たちまち成功する男が十人もいたとすれば、世間は彼らを泥棒よばわりする。結論を出したらどうだい。
 人生とはざっとこんなもんだ。こいつは台所よりもきれいなもんだとは言えんね。なにしろくらいからな。ご馳走を食べたければ手を汚すしかない。ただあとでその手を洗っておくのだけは覚えておくことだ。現代の道徳とはつまりそれなんだから。わしが世間のことをこんなふうに語るのも、世間がわしにその権利をあたえたから、つまりわしが世間を知っているからだ。わしが世間を非難しているとでもきみは思うかね。とんでもない。世間は昔からこうだったのだ。道徳家先生どもには世間は変えられまい。人間は不完全だからだ。人間はときに応して多少とも偽善的なものだ。それをばかな連中が、あのひとは真面目だとか、不真面目だとか言うのさ。わしは金持を非難して貧乏人に同情しようとは思わんね。人間は上でも下でもまんなかでも、いずれ似たりよったりなものだからな。その高等家畜の群れのなかに、百万人に十人ぐらいの割合で、いっさいのものの上に立ち、法律さえも超越する肝っ王の太い人間がいる。わしもそのひとりだ。もしきみがすぐれた人間ならば、頭を上げてまっすぐに進みたまえ。しかし、羨望や中傷や衆愚と戦い、世間をぜんぶ相手にせねばならんぜ。ナポレオンもオープリーという陸軍大臣に出っくわしたばかりに、植民地に飛ばされそうになったことがある。よく考えてみるんだな。前日にも増す大きな意志をもって、毎朝起きだだすことがでるかい。

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