見出し画像

高橋悠治の言葉――新譜『余韻と手移り』についてなど

2018.07.17 Tuesday |

高橋悠治氏(作曲家、ピアノ奏者)インタヴュー の記事について

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO32785590Z00C18A7000000

新譜『余韻と手移り』について

「余韻は音が消えた後の残像みたいな感じ。この音は、と言っているときにはもうその音は消えている。音は記憶でしかない」
「(現代の)ピアノ音楽からはちょっと外れた曲を入れようと考えた。あまり演奏してこなかった曲を探してレコーディングをしているわけだ」

------------------------------------

さいきん、フォーレやバッハなどの作曲家の、意味延長可能性あまたある作品以外には

あまり他者のきちんとした楽譜を読むことなく、modalな感覚で音を移動させる実験というか遊びをしている。

たとえば、童謡 赤とんぼ を、A 機能和声(functional harmony)からと、B 旋法的和声(modal)の両面からアプローチして、和声進行のつくられ具合を比較体感してみるとか。

このさい、実際に(いまごろ笑)やってみてひしひし体感するのは、AB両者は完全に分離した機序も何もかも別々のもの、というわけではなく、どこかで背中合わせになっているというか折り物の「輪」のような癒着した部分を持つけれど、それでも結果として相当ちがった雰囲気と和声の組み合わせが形成される。

バッハ+スカルラッティ風な、自分で作れる音楽を仮にやっていて、その線からシューマン的な線~フォーレ的な線、さらにもっと現代音楽的に多彩に滲む線、などをパラレルに想定しつつなぞってみるとか。

きのうは、ごくなんとなくだが、modal-jazz路線かもしれない形勢線を半音階進行でこまかく追っていた。

すると意外にシューマンの音楽がこれに近く存り、バッハ+スカルラッティ路線と、フォーレ的幽体離脱線との関係性を独特に形作って感じられたりしていた。
(サンサーンスが現今と未来の音楽について当時から思慮していたものに通じるのかなあ)

そんな体感をしながら、これを読むと実に面白かった。。。

ここで高橋氏のいわれる、『手移り』は、

ちょうどバッハを十分に吸収したロマン派からふたたびmodalな調性に変わる時代の音楽でも重要になって来るし(響の余韻を十分透徹させようとすると生理的にそうしたくなって来る)、フォーレなどにはすでに、グレゴリアンチャント~ルネサンス期の再現性とともに現代音楽の予兆がふんだんに刻まれている...。modalなので当然東洋的なもの——邦楽(能や長唄、民謡)やモンゴル系など——とも重ね合わさり、ジャンルと時空を超えた世界の螺旋運動が見えるようだなあと思ったら、やはり氏がこの点について言及されていたのか。。

カフカに訴えているのも興味深かった。

カフカにおいては、作品の出来不出来への評価にとって、「閉じ形-完成形(であるかないか)」はそれはほど決定的な力を持たない。

おもしろいのは彼における同じ実存的主題の変容性・変容可能性(開き)であり、それに応じてニュアンスの少しずつ変わる諌言性(想像力のまとう表徴の主題、意味付与の交替感覚とともに同質感覚)だとおもう。

「バッハの音楽は出来上がっている作品ではあるが、それを演奏していく過程で未完成になっていくような可能性を示せるのではないか。発展していくというよりは崩れていくようなパターンがある。崩れていくと別の形になっていく。だけど別の形になる寸前で、未完成のままで止まってい」

高橋祐治の言葉

る、という点では、有機体としての音楽、すなわち変態性・変容性について率直に述べられているように思う。
(※そしてこれはおそらく、古典――バッハにとどまらずベートーヴェンおよびアフター・ベートーヴェン=古典からロマン派への移行期にも起こり――すなわちロマン派型の変態・変容metamorphoseというものが勃興し確立されたのである――、さらに別なイデオロギーをまといつつそれ以後の音楽史にも展開されていったといえるだろう)

[↑ ※この部分については、別記事「クラシック音楽・ロックにおける調性の拡張と主体と状況/フォルムの問題」‥という記事でも触れているので参照されたい]

バッハ自身による、上記の端的な例としては、フーガの技法の、カノン群とその配置問題などに、すでにそれがあると思う。

どういう曲順で置くべきか、そしてその群を、この作品の中に挿入れるとして、どこに入れるべきか、などなどが分かっていない。まずもってフーガの技法全体に、すでにそういう空気感があるのだが...。

https://ja.wikipedia.org/wiki/高橋悠治

をよむと、

高橋氏の、たとえばシューマンへの評価(これ自体はかなり重なる)が若い頃のピアノ曲に集中しておりその後の室内楽や交響曲には射程されない点などからしても、

シューマン→ドビュッシー→サティというふうに彼の関心評価が進んでいったベクトルが、現代音楽の役割終了感につながっているのかもしれないと思うなどする。
もしもシューマン +メンデルスゾーン →サンサーンス-フォーレ-エルガーとその後のイギリス、などと、生身の生命体の担保可能性をたたえる形で進んでいくならば、クラシック音楽自身にとってもうすこし窮屈でない、もしくは分析主義的でない?、生きた心地のする進展になっていたかもしれないと。

noteに、サポートシステムがあることを嬉しく思います。サポート金額はクリエイター資金に致しますとともに、動物愛護基金に15%廻させていただきます♡ m(__)m