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ウマ娘による極上のシチーポップ「A・NO・NE」からいい匂いがする。

風の歌を聴け。

 ドラマCD『ウマ娘プリティーダービーSTARTING GATE08』(2018)の最後を締めくくるナンバー、「A・NO・NE」は爽やかな一陣の風のような楽曲だ。しかも、いい匂いがする。知ったのはつい最近だが、間違い無く今年一番聴いた楽曲なので、ここにその素晴らしさを記しておく。


風のように吹き抜ける音

 CM7(9)から始まるイントロの心地よいギターアルペジオ。綺羅びやかさを強調するために曲全体を通して、これでもかと使われるウインドチャイム。ディレイ多め、シンセによるコード音のアルペジエイター。突風のようなノイズスイープ。特に面白いのはサビで、「あのね(食い気味)、あのね(ジャスト)、あのね(タメ気味)」といった具合に、リズムに対して揺らぎを持たせた可愛らしいセリフだ。脳を揺さぶる。これらのサスティンな音色の揺らぎが、細かく刻んだドラムの上を軽やかに飛び越えていく、それはまさに涼しく吹き抜ける風だ。めちゃくちゃいい匂いがする。

 良い音楽には、ダイナミクス、コントラストがある。A・NO・NEについて言えば、32ビートまで感じさせるドラム&パーカッション(スネアのダブルストロークのハネが効いているし、右チャンネルのマラカスの効果も大きい)の細やかなグルーヴと、アコギ・シンセ・ベル音・ウインドチャイムのゆったりしたアルペジオによる大きなグルーヴの対比が印象的だ。混在したグルーヴによって複雑な味わいが楽しめる。

 ドラムやパーカッションが刻んでいて、伸びやかなウワモノの楽曲といえば、土岐麻子のロマンチック(オリジナルのキリンジ版も傑作)やアルジャロウのGLOW(だいぶ曲調的に違うが)などを個人的には思い出す。

「刹那さ」という風

 音楽は時間の芸術である。もっと言えば、レコードやCDに落とし込む為によくトリートメントされた録音音楽は、その刹那性をパッケージして完璧性と永遠性を付加した、究極の時間芸術のひとつと言ってよい。特に女性声優ユニットによるキャラソンCDはその最たるものだ。

 なんの因果か(企画だが)選ばれた3人のウマ娘と、それを演じることになり、役になりきって歌唱する若手女性声優たち。その巧さ、拙さ、声の若さも含めて、その時の彼女らにしか歌えない歌が、このCDに封入されている。もうこのメンツで録音されることは無いのかもしれない。一度吹いた風と全く同じ風が吹くことは二度とないのだ。しかし、そんな刹那的音楽がいつでも反復体験可能であることが、録音音楽の素晴らしさだ。

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虚構の風。シティポップとヴェイパーウェイヴを置き去りにして。

 テンションコードを多用した本作の曲作りは、シティポップ的な立ち位置に分類されそうな趣がある。しかし「A・NO・NE」はそれとは違う文脈の中にある、れっきとした「キャラソン」だ。

 70、80年代、綺羅びやかな都会を夢想して作られた(現在でいう)シティポップがあった。また、それらの音楽を利用し(サンプリングでは無い)、都会への夢想だったものを空虚な幻想としてノスタルジー化したヴェイパーウェイヴも流行った。どちらも時代感とは切り離せない音楽だ。

 今は都会への夢想や幻想も無い、虚構の時代である。サブカルチャーとメインカルチャーの括りがネットの普及により崩壊し、美少女キャラだろうがバーチャルアイドルだろうが虚構を虚構として楽しむ文化が醸成された。

 ウマ娘楽曲が表現するものは、夢想や幻想の遥か彼方、絶対に実現することの無い虚構そのものだ。在りもしない美少女達の、在りもしない青春だ。しかしそれは新しいものではなく、かつてよりあった虚構の音楽=キャラソン音楽の文法だ。今や様々なメディアでも取り沙汰されるウマ娘楽曲は、時代の風に乗っている。いや、時代がキャラソンに追いついたとも言えるだろう。

風に惹かれる理由

 「A・NO・NE」のそよ風は、ウマ娘という虚構世界の放課後の教室を通り抜け、カーテンを揺らし、美少女らのスカートを揺らし、私の脳にも揺さぶりをかける。在りもしない美少女の、在りもしない青春が、私には確かに聴こえたのだ。そして聴覚からオーバーフローしたその膨大な情報は、脳内で氾濫し、嗅覚にまで影響を及ぼすに至った。それは、とてもいい匂いだったのだ。

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