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『シン・ウルトラマン』を見て (※超ネタバレあり)

どうも、タカハシヒョウリです。
本日、2022年5月13日に公開された映画『シン・ウルトラマン』を初日に見て、その日のうちに思いつくことを書いていきます。

レビュー寄稿の依頼をもらっているので、最終的に外向けにまとまったものはそちらに書く予定で、それをネタバレありにするかどうかも含めて、その前に思考をまとめていく過程でもあります。
まだ1回しか見てないその勢いで書いているため、ちょっと取り止めない部分や不正確な部分も出てくるかもですが、よろしくお願いします。



※超ネタバレありです、未視聴の方は決して読まないでください!ご注意ください。そして未視聴の方は映画館へ!走れ!




慈しむように、「ウルトラマン」だった。

まず、この令和に「ウルトラマンとは」という概念を、最新の映像作品として(追)体験できるコンテンツが生まれたこと。
これから「ウルトラマンってどんなの?」という興味を持つ人たちに、「ウルトラマンってこういうの」と伝えられるマテリアルが生まれた、とでも言ったら良いのか。

熱心なファンであればあるほど、逆に近視眼的に見落としてしまいがちだったりするウルトラマンの根源的な魅力、
「ただ銀色の巨人が立っているインパクト」「次々現れる怪獣と戦うカタルシス」「異星人がぼくらのために戦ってくれるヒロイックさ」などを明瞭に描いていて、その「ウルトラマン解像度の高さ」はさすがだと思う。
ある種の丁寧さと従順さをもって紡がれた、ウルトラマンの魅力のカタログのような感覚で楽しむことができた。

『シン・ゴジラ』は、従来のシリーズからの大きな飛躍、異化で視聴者に衝撃を与えたわけだが、『シン・ウルトラマン』にはそうしたイメージの飛躍はあまり感じられない。
これは、ゴジラよりもウルトラマンに思い入れがある(と思われる)庵野秀明氏の采配によるものなのかもしれないが、ゴジラは思い切りよくスクラップ&ビルドされたのに対し、ウルトラマンは、オマージュを重ね、どこか慈しむように丁重に扱われているのだ。
それゆえにイメージの飛躍という意味でのインパクトはやや薄いが、その分、解像度の高い再構築が楽しめるというのが『シン・ウルトラマン』の全体像だろう。

(デザイン面は挑戦的という考え方もあるかもしれないが、大部分は成田亨氏のデザイン原点への回帰の方が強く感じられた。)

『シン・ウルトラマン』は、『シンゴジラ』ではないんだぜ

今回、もっとも大きなポイントのひとつがこれで、
『シン・ウルトラマン』と『シン・ゴジラ』は、表層的にはアクセスポイントが多数作られているが、根幹の感触はまったく違うものを目指しているということだ。
もちろん同じ「シン・ユニヴァース」と紐づけられた作品であるため、僕らが、この二つの作品を関連付けるのは避けられない。
だが、実際に見てみての感触は、驚くほど違ったアプローチの作品となっていた。

『シン・ウルトラマン』では、意図的にリアリティラインが大きく引き下げられ、オリジナルの『ウルトラマン』が持っている、空想特撮エンターテイメントの牧歌的で明朗な世界観が強く意識されている。
『シン・ゴジラ』では、ドキュメンタリーを彷彿とさせる現実味のある描写で、「特撮なんて、怪獣映画なんて」という言外に存在した感覚を更新することに成功した。
それに対し、『シン・ウルトラマン』は、『シン・ゴジラ』以降の世界に向けて、あえて「特撮、怪獣映画」のお約束をトレースし、提示している。
これは、『シン・ゴジラ』で築いた一種のブランドを解体する作業であって、神格化された『シン・ゴジラ』を堕天させるような試みとも言える。
冒頭の『シン・ゴジラ』のロゴを突き破り破壊して現れる『シン・ウルトラマン』のロゴは、まさしく作品の構造を象徴している。

現場を指揮する重要な禍特対メンバーの1人が、何十人もいる自衛隊員を差し置いて「僕が子供を助けに行きます!」と宣言しても「よし、行ってこい!」の一言で送り出される世界観。
これが、『シン・ウルトラマン』の「ウルトラマンっぽさ」に直結している。
そういう意味では、冒頭で「ポケモンいえるかな」みたいなノリで次々登場しては倒される『ウルトラQ』怪獣のシークエンスは、「これはそういうノリで見てね」という一種の観客のリアリティラインを下げるための仕掛けのようにも感じられた。

だが同時に、この「禍特対が1人いなくなっても、誰も気にしない」という牧歌的な部分と、『シン・ゴジラ』の自己模倣的に描かれる「諸外国との折衝」などの現実的な描写が、どこか噛み合わず、相乗効果を産んでいるとは言いづらいのだが、
それはつまり『シン・ウルトラマン』は『シン・ゴジラ』ではないことの証左でもあるわけだ。

そういうわけで、(監督が違うのだから当然といえば当然なのだが)『シン・ウルトラマン』は『シン・ゴジラ』ではなかった!

そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン

ストーリー面で重要なのは、
ウルトラマンがなぜ人間に興味を持ち、人間のために戦うのか、ゾーフィの言葉を借りるなら、なぜ「そんなに人間を好きになったのか」が全体の大きなテーマとされている点だ。
要するに、ウルトラマンがウルトラマンたるアイデンティティを描こうとしている。
この部分、実は初代『ウルトラマン』ではやや不明瞭で、ハヤタを事故で殺してしまった罪滅ぼしとして地球を守っているうちに、人間の知恵と尊さを少しずつ知っていったということになる。
以降、「ウルトラマンは人類と地球を守るもの」というのがシリーズの共通概念として、当然のお約束ともなっていく。
『シン・ウルトラマン』では、子供をかばう神永を死なせたウルトラマンが彼と融合するという概ねで同じラインではあるのだが、神永個人に対する憐憫や共感によるものではないようだ。
究極的に進化し、スタンドアローン=他者を必要としない生命体であるウルトラマンにとって、「他者のために命を捨てる」という行動を取る不可解で多様な種族に強い興味を持った、という部分が強調され、本来の孤独な性質から理解不能であるがために惹かれるウルトラマンという存在が際立って描かれている。

この部分のアップデートは塩梅が難しい部分だったと思うが、庵野氏が敬愛する『帰ってきたウルトラマン』の冒頭シークエンスを融合しつつ、クライマックスでの浅見弘子とのキスシーンをカットし(※庵野氏の手記より)、最終的に個人ではなく種に対する愛情という点を逸脱しなかった点も含め、納得して見ることができた。

(ちなみに、そもそも『シン・ウルトラマン』における、光の国M87の住人たちは、いわゆるM78のウルトラマンよりも、かなりドラスティックなようだ。
宇宙の秩序を維持するために戦う、という行動に加えて、危険で不要な種族を刈り取るという選択肢を持っている。
これは、ほとんど宇宙の掃除屋=ザラブと同一のもので、実際にウルトラマンの決死の行動で考えを変えたゾーフィも「人類は興味深いから存在して良い」旨を告げている。つまり、逆説的に「価値が無ければ、ゼットンを送り込んで滅ぼしても良い」と言っているのだ。130億もある種族の中から、価値の無い種族を消すことは大したことでは無いという考えは変わっていないあたり、ゾーフィこわい!)

だが、同時にとても悔しかったのが、特に後半で描かれる「多様性と、自主性に希望を託すヒーロー」という描写が、3年前の映画なのだ。
いや、実際にコロナの影響で4年前に製作開始して2年前に公開される予定だった映画なんだけども、恐ろしいほどのスピードで更新されていく価値観の中で、長澤まさみさんの描写なども含めて、数年前の映画だったらもっと良かった、受け取りやすかったという違和感が散見された。

それは、一部はどうしようもないことであり、見て見ぬふりをしたかったけれど、やはり無視できない残念なポイントでもあって、「ちくしょうコロナ」と思ったり、そんな理由もあってか、原典へのオマージュを厚く取った前半の興奮に対して、後半のオリジナル展開がやや感覚的に受け取りづらいものになっていたのは、複雑な想いを持って見ていた。

それでも、全体として『ウルトラマン』の数エピソードを映画内でしっかりとまとめあげた構成は見事であったし、ネロンガ戦やザラブとの夜間戦闘、ゾーフィの登場などは、映像的にも、ファンを喜ばす仕掛け的にも満足度が高く、有岡大貴さんを筆頭に演技陣も遜色なく、映画館で見て楽しい映画であることは間違いない。

とにかく、この慈しむように紡がれたウルトラマンへの讃歌を、ついに目にすることが出来たことに感謝。
「ウルトラマン」、わたしの好きな言葉です。







それでも、気になってしまうわけ

ただ、『シン・ウルトラマン』については、初見時にどうしても気になる点がいくつかあって、せっかくなのでいくつかをここに書いておくと、一つは映像のクオリティのブレ方だ。
全体的にCGのクオリティが、あるラインに達していないシーンが散見されるように感じてしまったのは、もちろん予算や時間などの厳しい現実の要求があったであろうことは理解しつつも、夢中になる自分にブレーキをかけてしまった。
一つのポイントとして、ウルトラマンがかなり激しく動くのだが、動きが激しくなるとゲームのプレイアブルなCGのような、重さが感じられない絵になってしまうという弱点。
その点で、『シン・ゴジラ』が、ほとんど動かないがゆえの不気味さに切り口を見出したのは、最適解だったんだなと再認識した。
ただ、これはあんまり言うのも野暮ってもんだし、樋口監督はじめ現場がベストを尽くしたであろうことは疑いようがなく、前述のようにネロンガ戦や、ザラブとの夜間戦闘は、映像的にもかっこよく、ファンを喜ばす仕掛けもたっぷりで満足している。
その上で、今後さらなる予算が出る状況になると良いよなぁ、という想いも込めて書いておく。

(胸でネロンガの電流を受け止めるウルトラマンは最高だったな、やっぱウルトラマンは強くないとね!)

だがもう一つの方、映像の統一が徹底されていない点が、テンポを大きく妨げていたのは、気になった。
おそらくiPhoneを使ったカットだと思われるが、明らかに画質が低いカットがところどころで挿入されるのだが、その一瞬でスクリーンに違和感が漂ってしまう。
これが『シン・ゴジラ』では、一種のドキュメンタリータッチと相まって臨場感を感じさせたのだが、劇映画色の強いウルトラマンでは、やはり「映画として」おかしい。
この「映像娯楽としての映画」としての「納得いかなさ」があるため、個人的に思い入れを超えた絶賛を『シン・ウルトラマン』にするわけにはいかないんじゃないか……、と感じてたりする。
これは、「映画に何を求めるか」「ウルトラマンに何を求めるか」というところなので、個人的な感想として書いておく。決して同意を求めるわけではないし、絶対に劇場で見るべき映画であることは間違いない。

あ、あと、メフィラスはあんなに肉弾戦しちゃダメだろ!というのがあるのだが、それは「解釈の不一致」ということで。2代目なのかもしれないしね!


※2回目見て、追記

公開から3日目、あえて地元の中規模の映画館を選んで2回目を見てきた。
映画全体としての感覚に大きな変化はないんだけど、映像部分には少し違う印象があったので追記。
というのも、中くらいのスクリーンの、IMAXでもなんでもない通常上映の方が、スッと入ってきて、端的に言って「良かった」のだ。
ちょっと言い方は悪いかもしれないが、IMAXでは「見えすぎた」部分が少し慣らされた感じ。

ちょっと考えていた「『シン・ウルトラマン』は、大画面・高精細で見る造りになっていないんじゃないか」という印象は、あながち間違っていなかったんだと思った。
もともとテレビの小さな画面の中で活躍して、感動を生んだヒーローだしね。

というわけで、このネタバレ原稿を読んでる方はすでに一度見ていると思うんのですが、初回をIMAXなどで見たと言う方は、ちょっと違う環境で見てみるのも一興かと思います。

※追記2と感謝

初日に書いたこちらのネタバレレビュー、週末だけで1マン回以上読んでもらい、たくさんの反応を頂きありがとうございます。
今現在、依頼をもらった原稿を数本執筆中でして、
今週末に作品に関するコラム(自分内決定版)が、もう少し先に『シン・ウルトラマン』の音楽に関するコラムが公開になります。
そちらもよろしくお願いします。

※追記3

映画評論サイトBanger!!に、『シン・ウルトラマン』についてのコラムを寄稿しました。
「彼は、なぜ人間が好きになったのか?」を入り口に、 自分の中に生まれた一つの解釈を書きました。※ネタバレ有
https://www.banger.jp/movie/78484/
良かったらぜひお読みください。


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