ヤスパースの「包括者」を知りたい

ヤスパースの言う「包括者」
何故、主観と客観が分裂してはならないのか
どうしても理解出来なかった

そこで一度中断して、ヘーゲル(精神現象学)を読み始めた

一度ヘーゲルの世界に触れて
ヤスパースに戻って来ると
理解度がアップしているのを感じる!

引っ掛かりの途中の「包括者」のことで大変なことに気が付いた

ヤスパースの包括者

自分と自分以外のものを区別せず
全て同一の物として見ると
世界の見え方がガラリと変わると言うことを言いたいのではないか

ただこれは
目を閉じている人が目を開けるのと同じような違いで
閉じたままの状態では決して、開けた時の世界の事を"わかる"ことが出来ないのと同じだと言うことのようです。

本の中では眠っているものが目覚めると表現していました。

私が感じ取る「包括者」

まだ「完全に掴んだ!」と言うところまでは行っていないけど、途中経過には覚えがある
ので、私なりの受け止め方を書いてみようと思う

私は自分の子供と触れ合うことで
これがヒントになるかもと気付いた

愛によってしか
自分と自分以外を統合的に感じることは出来ないのではないかと

少なくともドライで潔癖症の入っている私にはそうだった

他をどこか汚れたものとして遠ざけていた時は
自分以外のものと混ざるのがとても嫌だった

でも
本当にとても愛おしいものを得ると
一緒になるのが嫌ではない

だから愛は世界を知るための
火、風、水、土の次の重要な五番目のエレメントと言われるのではないか、と

この感覚を更に進めていくと
包括者の感覚を掴むことが出来るのではないか

今はそこに期待をしている

普段から分け隔ての心が少ない人は
包括者の域に近い所に居る気がする
そう思うと、色々なことは腑に落ちる思いがする…
愛の欠乏した人間がそこから遠い所にいる理由も

付け足し

美内すずえの「ガラスの仮面」を知っている人がいたらと思って付け加えておきます。

舞台役者の物語なのだけれど
とても難しい役「紅天女」を演じようとする時に、その役者が

私は宇宙と一体である
宇宙は私である

と、悟るシーンがあります。

主観と客観の統合の包括者とは
あれのことなんだと思い当たりました。

少しでもイメージがし易くなるヒントになるといいのですが…