見出し画像

がんばれ、穴子くん

文:永井一樹(附属図書館職員)

 『てぶくろ』は私にとって、子どもの頃からそこにあり、今もそこにありつづけている絵本である。(たぶん今も自宅のどこかに眠っているはずだ)。長く読み継がれる絵本は、長じてからも年相応の読み応えというものがある。名作のもつ、そんな懐の深さが好きだ。
 今夏、福音館書店の絵本研究者・根本栄次氏に来館いただき、『てぶくろ』の読み聞かせをしてもらった。聴きながら、私はなぜか週末に娘とよく訪れる近所の海浜公園のことを思い浮かべていた。(それが年相応の読みなのかどうかわからないけれど、)そのことを書きたい。
 その海浜公園は、普通の公園ではない。ブランコやシーソーなどがあるその同じ広場に、動物園でみるような無骨な檻が10室ほど、軒を並べている。中を覗くと、アイガモやマガモといった鳥類が飼育されていて、孔雀なんかもいたりする。いったい誰が何のために孔雀なんて飼っているのかと不思議に思う。こんな辺鄙なところで、客からお金も取らずに。
 運がよければ、孔雀が羽根を広げる瞬間を目にすることもある。狭く薄暗い檻いっぱいに、エメラルドグリーンの羽根を広げて、さわさわと震わせている光景は圧巻だ。
 『てぶくろ』に孔雀は出てこないけれど、もし入れたとしても、孔雀は羽根を広げさせてもらえないのだろうな。根本氏の朗読を聴きながら、私はふとそんなことを思っていたのだった。
 その檻の二軒隣りには、同じ色の孔雀がいて、一方が羽根を広げるときには、もう一方も決まって羽根を広げるのが不思議だった。日曜の夕、その神秘的なシンクロ現象の余韻に浸りながら、私は3歳の娘と手をつなぎ土手の道を帰っていく。家に帰ると、お風呂に入り、それから「サザエさん」を見ながらの夕食。(それが何十何百と繰り返してきた日曜の私のルーティンである。)
 「サザエさん」もまた、私にとって、子どもの頃からそこにあり、今もそこにありつづけているアニメである。長寿番組は、長じてからも年相応の見応えというものがある。子どもの頃はカツオの視点だったけれど、今はマスオの視点で見ている自分に気づく。だが、ネットで調べると、マスオは28歳。今45の私は、どちらかというと54歳の波平の世代に近いのだ。子どもの頃は、波平がいつか年下になる日が来るなんて想像もしなかった。でも、そのときが刻一刻と近づいていることを最近強く実感する。
 どれだけ時が経とうとも、なぜかこの家族は絶対に年を取らない。お茶の間の円いちゃぶ台も、昭和を思わせる緑の冷蔵庫も一向に変わる気配がない。彼等は、自家用車もパソコンも携帯電話すら持っていない。そのことに、私は何か目眩するような困惑を覚えてしまう。そこが浦島太郎の竜宮城のような場所だからだ。だが、時代と共に変わっていることもある。たとえば、波平とかつおの関係。昔はもっとがみがみと怒っていたはずなのに、最近はずいぶん丸くなってしまった。かつおの手玉に取られてしまっていることもよくある。父権の失墜と共に、波平の造型も変容を迫られたということだろう。それからもうひとつ。マスオの同僚、穴子くんの登場頻度の多さである。私の見る限り、毎週必ずといっていいくらい登場してくる。のりすけやいくらちゃんよりも多いくらい。(昔から、こんなレギュラーメンバーでしたっけ、この人。)しかも、彼の出番はほぼ100%、恐妻家としてのそれである。確かに、彼の妻は恐ろしい。いつぞやなど、へそくりだかスナックのマッチ箱だかがみつかったくらいで、顔をさんざん殴られていた。テレビの前の子ども達に、こんな修羅場をみせてしまっていいものかとちょっと不安に思ってしまう。明日からサラリーマンの日常が始まるというその夜に、穴子くんのペーソスを見せつけられるのは正直辛い ――。
 『てぶくろ』といえば、もうひとつ。つい先日大学の入試業務で、試験室の机を消毒していたときのことである。作業が終わり、青いビニール手袋を脱いだとき、ペアになっていた若手の女性職員に声を掛けられた。
 「細くてきれいな指ですね。ピアニストみたい」
 私はとっさに二の句が継げず、その場にぎこちない空気が流れた。私は女性にはモテないが、手の方は昔から結構モテるのだ。おそらく顔を赤らめながら、それでも彼女の眼前で、私は五本の指を大げさに開いてみせる。孔雀が羽根を広げるように、きっぱりと。 ―― だけど、この指でショパンを弾けない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?