見出し画像

平成オトコ塾(再)

※この記事は、およそ7分(課金コンテンツを含めると15分)で読めます※

 前回同様、動画の補足とも言える記事の再掲企画です。

 今回は十年前に出ていた、澁谷知美師匠の著書を評した、当時やっていたOCNブログ(現・gooブログ)における記事です。
 これは前回記事にもリンクを貼ってはいるのですが、今の目で読み返すとやはり、説明不足や意味の通りにくい文章も多いので、多少の改稿を加えました。ことさらに新たな内容をプラスしたわけではなく、あくまで読みやすさを考えてのリライトです。
 では、そういうことで……。


『平成オトコ塾』採録

 女性の手になる「男性論」の書です。
 茶化してしまうなら、草食系男子とか非モテとかに対する「フェミニズム勧誘本」といったところでしょうか。
 本書を読むきっかけとなったのは、YOUTUBEに上がっていた本書の著者、澁谷知美教授と上野千鶴子教授の対談でした。Mixiの某コミュでそれが話題に上ったのですが、実はぼくはその対談を見る限り、比較的澁谷教授に好感を持てると感じたのです。

YouTube: 上野千鶴子vs澁谷知美トークショー1

 対談において、澁谷教授は上野教授の「男の友情はダメだ」論にかなりしつこく食い下がり、反駁していらっしゃいました。繰り返す通り、フェミニストたちはとにもかくにも男の友情を貶め、女同士の連帯を尊ぶ傾向にあります。そこに疑問を表明した澁谷教授の実直さと勇気とを、ぼくは大きく評価したいと思います。実際、本書においてもブルセラ学者や萌え精神科医のセンセイ方がママのお言いつけ通り、お利口さんに男の友情を全否定なさっているのを一蹴する箇所があり、読んでいて痛快でした。
 まあ、残念ながら、教授の意見に賛成できた点はそこ以外あまりなかったのですが。
 というか、以上は第一章「その「男の友情」は役に立つか?」という、基本的には男の友情を否定している章の中で述べられたことなのです。この、宮台師匠、斉藤師匠(あ、加筆していて名前出しちゃった)を腐す個所は単に両師匠をやっつけたくて書いてみただけなんじゃないかと……。
 もう一つ、澁谷教授は「男の友情は素晴らしい」「女は嫉妬の塊」「女は男の話を聞かない」などなど、「一般論」をまず提示し、次にそれを否定するという論の展開の仕方をなさっています。「通念はこれこれだが、実のところは違って……」というわけですね。
 これは彼女が「一般論的には男の友情は強いものだと見なされている」とご存じであり、象牙の塔にお住まいのちぇんちぇー方と違って、世事に通じていらっしゃることを示しています。
 また、この論理展開は「男の友情」のネガティビティをあげつらいさえすれば何となくそれを否定できたような気になり、「あれ? 女の友情だって同じネガティビティがないか?」といった疑問を読者に生じさせにくいという点でも、極めて優れた手法であります。奇しくも同書の別な箇所に(以上とは全く文脈の関係ない個所で)

 不思議なことに、「一般的にいわれているのとは違うこと」は、妙な信憑性を持つものです。

 と書かれているのですが、まさしくそのテクニックを応用した物言いですね。
 結局、教授は男の友情は「競争心」故に成立しにくいものだ、との「彼女たちの業界の中だけで流通する一般論」を踏襲していらっしゃいます。「女同士には競争心ってないの?」といった疑問に答えてくださることは、もちろんありません。
 他のトピックスにおいても、基本的に教授は同じような論理のすり替えという手法を多様なさっています。
 例えば教授は男が女を「守る」という時、「経済的サポート」のみを考える「単線型」サポートと、それに加え「情緒的サポート」をも考える「複線型」サポートのふたつの種類があるのだという、実に奇妙な定義を持ち出します。
 何かと思って読んでいけば、教授は「単線型」の場合、失業するとぽっきりと心が折れますよ、という理由で「複線型」のサポートを勧めてきます。では、その「情緒的サポート」とは具体的に何を指すのでしょうか?
 はい、「家事育児をすること」でした。
 これ以降、論調は「日本の男は働き過ぎ」という、主張としては頷けるものに移っていくのですが、読んでいる側はもうどうでもいいという気分に陥ります。

「非モテ」についても語られているのですが、これもどうにもピントがずれているように感じられます。
 従来の非モテ言説(格差社会に原因を求める説)は教授にとって「男が稼ぐ前提で立てられた理屈だから許せない(大意)」もののようです。そんなこと言ったって、そもそも女が稼いで男を養う(せめて共稼ぎする)気概があれば、非モテや非婚化自体が発生していないと思うのですが。
 ぼくも著作で展開した「女は金に寄ってくる」という理屈に対しても一応、反論が試みられているのですが、「モテない理由はいろいろある(大意)」とかハナシをすり替えているようにしか、ぼくには読めませんでした。

「そうはいっても、年収が上がれば婚姻(恋愛)率も上がるのは確かじゃないの」
「男性の年収を上げれば、今よりも数多くの人たちに恋愛が保証されるってことでしょ。だったら、すべての人間に恋愛を保証できないからといって、格差解消は不要ってのは暴論なんじゃないの?」
(84p)

 という反論を仮想して、それに対して

 格差解消はむしろ必要です。ただし、すでに述べたように、格差是正は格差是正として粛々と追求していけばよいことであって、そこに恋愛や結婚を持ち込む必然性はまったくありません。
(84p)

 と答える下りなど、メチャクチャとしか言いようがありません(相手に無理矢理二種の疑問を提出させて、二次的な一方の疑問だけに答えて誤魔化している!)。
 また、非モテ問題を若年労働者問題とパラレルで考えている箇所など、ただひたすら「社会」(という抽象的で捉えどころのないもの)に責任を押しつけ、「女」に不備があるかどうかなど、まず夢にも考えない態度はいっそ清々しいとすら感じてしまいます。

 まだまだあるのですが、トピックスが多義に渡っている本であるがため、レビューもまとまりのないものになってしまいました。この辺でやめておきましょう。
 ただ、最後に。
 例のMixiではYOUTUBEでのやり取りが「男の性的なコンプレックスを嘲笑ったもの」であると評されていました。包茎手術の問題などが語られていたのですが、正直、ぼくはそこまでの悪意は感じませんでした。ところが本書を開いてみると、なるほどYOUTUBEでも話題にするだけあって、男性間の性的いじめや包茎手術の失敗について、妙に子細にページを割いて書かれているのです。
 むろん、渋谷教授は男性に対して親身になるが故に、そのような話題にも果敢に挑まれたのでしょう。というか、ご本人はそのように信じていらっしゃるはずです。包茎手術に潜む恐怖について、過剰な熱意でもって書かれているのですが、ここもご当人に尋ねたら、そうした動機をもって書いたのだと言い張ることかと思います。
 包茎手術の失敗で無残なことになった男性のペニスについて、大はしゃぎで、子細に描写する箇所があります。
 少し、引用してみましょう。

 そのペニスは二色アイスのように上と下で色がはっきり分かれているうえに、チョコ部分とバニラ部分の間を大ざっぱなジグザグの境界線が走っています。
(中略)
気を取りなおして「新撰組の羽織の模様みたいでカッコいいじゃん!」と励まそうかとも思いましたが、異国の人ゆえ新撰組の説明からしなくてはいけないので、黙らざるをえませんでした(図.1)。
(150p)

 包茎手術、恐ろしいですね。
 この(図.1)に対応させ、「新撰組の羽織」の画像が掲載されています。親切ですね。
 ちなみに本書に載った表以外の図はこれと、「包皮再生グッズ」を取りつけた男性器の写真のみでした。教授の熱意が伝わってきますね。
 これを男女逆転して考えるとすれば、女性がレイプで受けた傷を男性が面白おかしく書き立てるようなもので「氏賀Y太みたいでカッコいいじゃん!」と思ったのですが、氏賀Y太の説明からしなくてはいけないがとてもできないので、黙らざるをえませんでした*1。

*1 氏賀Y太氏というのはものすごいグロ描写を得意とする漫画家さんです。当初、この注釈の代わりに(図.1)としてそのグロ画像を貼りつけていたのですが、公序良俗に反するということで、当記事、長らく閲覧禁止となっておりました。まあ、無理もありません。

*     *     *

 ――以上です。
 さて、もう一つ「再掲」すべき記事があるのですが、まあ、いろいろ事情がありまして……。
 ともあれ、おまけとして久し振りに課金コンテンツを用意しましたので、補完はそちらの方でどうぞ。ただ、これはいつも言っていることなので、ここまで読んでピンと来られた方は、読むほどのこともないかと存じます。
 では。

ちょっとした付記

 え~と、そんなわけで、実際のところ、前回記事(『現代思想 男性学の現在』(その3)の再掲)の時も、かつてのニコブロにおける記事「ホモ雑誌の編集長が子供とのセックスを肯定しすぎな件、そしてフェミニストがそれをスルーしすぎな件」にリンクを貼っておきましたので、金田淳子がどのような人物かは、そこをご覧いただければおわかりになる仕掛けにはなっております。

 一応、ごく簡単にかいつまんでご説明しますと、『薔薇族』の編集長伊藤文学は長らく、少年愛者と子供とのセックスを称揚し続けてきました。小学生の子供と(その親に言い含める形で)関係を持っているようなゴミクズのことを「素晴らしい」などと絶賛し続けてきたキチ〇イなのです。
 しかしホモを崇拝するフェミは伊藤も(言っておくと伊藤はノンケなんですが)神のごとく崇拝し続け、上のような危険性を訴えた者は、ぼくの知る限り、いない。
 ある時、金田が伊藤を称賛していたのを見て、ぼくがついつい上のことを指摘した。
 金田はそれを頑迷に否定し続けたが、ぼくとしては本当に根気よく、誠意をもって説得。金田も本当に渋々ではあれ事実を認めてくれたわけです。

 が!
 その直後に、ぼくが同主旨のことをN.Mというフェミニストに進言したところ、彼女は事実を認めることなく、舌鋒を極めてこちらを罵ってきました。
 こちらは伊藤の著作の、子供をレイプしている人物の手記を掲載し、絶賛している箇所のコピーをupして見せたりもしたのですが、彼女は全く現実を受け入れようとはしませんでした。

 どうもこの人物は腐フェミ業界で相当の影響力を持っているらしく、金田もそのとたん、「兵頭に同意などしていない」と前言を撤回してしまいました。
 当初、先の記事も「金田はわかってくれた云々」で話を終えていたのですが(後から注釈をつけました)、そんなことから、まあ、「全然おわかりにならない方」であったというのが結論でございます。

 ただもう一人、本件で印象的な人物がいらっしゃいました。
 仮にAさんとしておきますが、件のN.Mの取り巻きというか、ファンというか、そんな人物。言っては悪いけれど天然というか、ちょっとトロそうな人物で、彼女にも上の、伊藤の著作のコピーを読んでみてもらったのですが、その時、彼女の口から出て来た感想は「少年愛者の悲しみを感じました」というものでした。
 この言葉を聞いてぼくはぞっとしました。
 この人物は身勝手な欲望を振り回す少年愛者のナルシシズムには感情移入し、しかし彼の被害を受けた子供に対しては一切の憐憫を感じることがないのです。
 このAさんは、そしてN.Mも金田も水戸もそして澁谷も「聖母」でした。
 ただし、自分からは何もせず、ただ身勝手な慈愛をナルシスティックに垂れ流す、極めて幼い聖母。
 もう一つ、彼女はぼくがN.Mを厳しく糾弾するその態度を見て、「ねえ、N.M先生のことが好きなの? 好きなの?」と絡んできました。
 正直、これには参りました。
 全てを「性愛化」して解釈してしまうという、まさに女性原理の塊のようなその言動に呆れたということもありますが(仕事上で失敗し、上司にお説教されたのを、ただ「あの人、私のことが嫌いなのね」とだけ解釈するようなものですしね)、何というか、粘着質にまとわりつくかのようなその口調が非道く気味悪く感じられました。
 女性の方が読んでいたら(いや、読んでないでしょうが)想像していただきたいのですが、これ、気持ちの悪い男に「俺のこと好きなんだろ? なあ、そうなんだろ?」とまとわりつかれるようなものですよね。
 そう、このAさん(単純で、バカっぽいキャラのため、当人に対してはあまり憤りは沸いてこないのですが)はまさに「身勝手な聖母ムーブ」、そして「性愛化」とでも称するべきか「被愛妄想による攻撃」とでも称するべきか、そんな振る舞いによって男性へとダメージを与える「女災兵器」とでも形容すべき人物でした。

 そしてこれはまた、先の澁谷と金田の対談にも全て当てはまることではないでしょうか。
 フェミニズムとはそうした女性性の業、幼さといったネガティビティの実体化そのものである。お二人は先の対談をもって、それを証明したのです。

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?