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『女災』余話(再)

 まずはお報せから。
 何と言論プラットフォーム「アゴラ」様で「フェミニストは何故、「男児叩き」をするのか」という記事を書かせていただきました。

 反応がよければまた書かせていただけますので、どうぞ応援のほどをよろしくお願いします!!
 さて、今回の記事は前回の直後、2010年2月28日に書かれたもの。『女災』が雑誌で採り挙げられたよ、というのと動画ができたよ、という、まあこれも宣伝に近いですが。
 ただしわかりにくい部分については加筆訂正を行っていることをお含み置きください。

 そうそう、宣伝で思い出しましたがこれは『女災』[増補改訂版]がKindleで刊行された記念の企画なので、そちらの方もどうぞよろしく。

    *     *     *     *

 さて、ネタがないので今回は拙著『ぼくたちの女災社会』出版の余波などについて。

 1.『東京人』2009年11月号
 まずは同雑誌に掲載された、山崎浩一さんによるレビュー。
 お読みいただければわかる通り、拙著では山崎浩一さんの名著『男女論』が大いに引用されています。本田透さん、小浜逸郎さんの著作からの引用も大変に多いのですが、山崎さんに至っては期せずして序論と結論の多くを『男女論』からの引用に依っており、また思想的中核とも言える「正しい差別」論(現代の女尊男卑的状況の本質は、「男は強者だから、叩いていいのだ」という口実で、男の中から弱者を選りすぐって差別することにこそあるということ)すらもが山崎さんのコラムがヒントになっています。
 その意味で、このレビューを読んだ時は嬉しさが1/3、恥ずかしさが1/3、パクリがバレたじゃねーかヤベぇというのが1/3といった、非常に複雑な気分でした。
 ただこのレビューでは、山崎さんは拙著を評価してくださりつつも、

  が、それでも著者が言うほど私個人は女たちに絶望などしていない。

  とまとめておいででした。
 考えると、山崎さんとしてはぼくに一言、言っておきたかったのかも知れません。何しろぼくは山崎さんの二十年前の文章と現在の文章をコラージュして、「山崎はこんなに女に失望しているのだ」などと強弁していたのですから、極悪です。いや、もちろんこれは冗談ですが、ただ、或いはそういう誤解を与えかねないモノだったかも知れないとは、思います。
 しかし、とは言え、同時に思うのです。
 山崎さんは最近の文章で、 

 フェミニズムは実は女を資本主義に呪縛し、男を家庭から自由にしてくれる男性解放運動だったのである。

  ともおっしゃっていました。フェミニズム運動の結果、女性が婚期を逃して焦りつつある現状を皮肉ってこう書かれたわけです。あまりの痛烈さについ拙著でも引用してしまったのですが、上のレビューにおいて、やはり山崎さんは同じことをそのまま繰り返していらっしゃったのです。
 こうまで痛烈な筆致を目にすると、ついついぼくの方まで同じことを繰り返したくなってきます。即ち、

 山崎さんが女という存在にいかにほとほと失望しているかが手に取るように分かるではないですか。

  ――と。

  2.5分で分かる女性災害

 拙著をモチーフにした動画ですw
 内容としては見ていただければわかる通り、拙著を過不足なく的確にまとめている感じなのですが、白眉はセクハラ冤罪の一例として『ハルヒ』の名シーンが挿入されているところです。
 ご存じの方も多いでしょうが、このアニメ(及び原作の小説)ではヒロインであるハルヒが学校のPC部の部員にセクハラ冤罪を着せるぞと脅してPCを奪い取るシーンがギャグとして描かれております。それがこの動画では「女災の一例」として紹介されているわけですね。むろん、『ハルヒ』そのものはフィクションです。そこにインモラルな描写がなされていたからといって、ぼく自身は文句をつける気はありません。そもそもハルヒというキャラクター自身、「清廉潔白な正義の味方」と設定されているわけでは全くありませんし。
 しかし、少し考えてみたいのはこれを男女逆転されたらどうか、ということです。少年キャラクターが少女キャラクターに対し、「レイプするぞ」と脅して対価を求めるシーンがアニメで描かれたら、果たして観ている側は「お笑い」で済ませるかどうか。むろん、少女向けの「ティーンズコミック」でなら類似の描写は掃いて捨てるほど溢れていることでしょうが、それはあくまで読み手の少女たちの「性的興奮」のために描かれたものであって、「お笑い」のために描かれたものではないわけです。
 ぼく自身は過度にフィクションに文句をつける類の「運動」の仕方はすべきでないと思っています。一つには「表現の自由」が云々といった反論が必ず立ち現れ、問題が複雑化するからというのもありますが、結局は「虚構よりも現実の方が凄惨かつ、プライオリティが高いから」です。
 とは言え、上のようなシーンを「お笑い」として捉えてしまう感覚、それがぼくたちの精神内に(プリインストールされているのか「社会からのすり込み」かは知りませんが、とにもかくにも)アンインストールし難い形で刻み込まれていること、それ自体に対してはもう少し自覚的であってもいいように思います。

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