私たちは8時15分にしか黙祷をしない

 1945年8月6日。広島に、世界で初めて原子爆弾が投下された日。

 私は広島の高校生だ。広島で生まれ、広島で生きてきた。あの「8月6日」のことは、ずっとずっと昔から教えてもらってきた。幼稚園の園長先生が被爆者で、毎年夏が来ると遊戯室にみんなで集まって、先生の家が崩れてお姉さんが亡くなった話を聞いた。小学校では夏休み中に登校日があって、原爆に関するいろいろなアニメ映画(おそらく2〜30年前くらいに作られたもの、エンタメ性はほぼなかった)を見た。中学・高校では、身バレするので詳しくは言えないが、自分とごく親しい中高生が、原爆を風化させないための取り組みをしているのを見てきたし、私もそういったものに取り組んできた。原爆について書かれた本を読んだり、原爆資料館に行ったり、……「原爆投下」「8月6日」について、これまで様々なことを学んできた。

 私は毎年8月6日を迎えると、8時15分に黙祷をする。2歳とか3歳とか、まだ何も分かっていない頃から習慣として強く根付いている。8月6日の8時になると、広島ではほぼ全部のチャンネルで平和記念式典の中継が始まる。私の家では、毎年この日にはNHKの中継を見て、8時15分になると家族全員で起立して黙祷する。8月6日朝8時15分、広島に原子爆弾が投下された時刻に、犠牲者に哀悼の意を表するために。

 しかし、ここまでしておいて?と思われるかもしれないが、私は原爆について、どこか遠くの視点から眺めていた。原爆投下時の写真をご覧になったことがあるだろうか。木造の建物は尽くぺしゃんこになり、爆風でガラスは吹き飛び、鉄筋コンクリートの建物でさえも鉄骨が剥き出しになっている。被爆した多くの人々は服どころか肌も焼け焦げ、腕からずるむけになった皮膚を垂れ下げながら歩いていたと聞くし、「水が欲しい、水が欲しい」と言いながら川に身を投げた人も大勢いるそうだ。「水を飲ましたら死ぬ」と他の人に言われて、水を飲ませないでいると、そのまま亡くなってしまった人を目の当たりにした、という話も聞いたことがある。

 つまり何が言いたいのかと言うと、その「広島」は、私の知っている「広島」とは全く違うのだ。私の知っている広島には大きなビルがたくさんあるし、街にいる人はみんな元気そうに見える。中心部に行けば何でも買いそろう。川の水なんか飲まなくても、蛇口をひねれば水道から綺麗な水が流れてくる。原爆投下が今の広島に落としている暗い影は、実は見えにくい。原爆ドームも(他地域から来られる方はそうでもないのかもしれないが)、正直見すぎてしまったせいで、どこか「最初からそうだった」ような気がする。この発展している広島の街で、昔そんなことがあったということに、いまいち現実味が湧かないというか、自分の現状と繋がってこないのだ。

 今年、NHK広島の企画の「ひろしまタイムライン」が始まった。Twitter上に開設された「一郎」「やすこ」「シュン」という3つのアカウントは、当時被爆された方々がつけられていた実際の日記を元に、75年前の日常を発信している。
 このアカウント、当初はフォロワーも少なかったが、ここ数週間で全国的に大きな話題になり、フォロワー数も急激に増えた。高校の友達を中心に繋がるリア垢だけでなく、趣味垢の相互がRTしているのを見る機会も多い。

 私はこの「ひろしまタイムライン」に衝撃を受けた。なんというか、75年前でも、私たちと全く同じように時間は進んでいて、人々は日々の生活を営んでいたということが、はっきり目に浮かぶのだ。
 普段私はTwitterによく生息していて(いわゆるツイ廃というやつだ)、そこでいろいろな人と交流している。普段のTLに流れてくるツイートは、顔も本名も知らないフォロイーたちの日常の呟きだ。しかし、実際の存在を知らなくとも、それぞれのアカウントの奥に彼らの日常があることは伝わってくる。だからこそ、同じ媒体で75年前の生活を綴るアカウントを身近に感じ、そして恐怖を抱いた。この人たちは普通に、本当に普通に暮らしていたけれど、8月6日に原爆が投下されるいう未来は確定しているのだ。
 知識としては知っていた。だけど、ここまで被爆者のことを身近に"感じた"のは生まれて初めてだった。新聞社で働く「一郎」、出産の準備をしている「やすこ」、疎開先から廣島に帰るのを心待ちにしている「シュン」。私は彼らにこの後訪れることを知っているから、彼らの日常の呟きにある種の悲しみを持ってしまう。しかし彼らはこの先に起こることなど何も知らずに、ただ生活を営んでいただけなのだ。

 2020年8月6日。広島は曇り。8時15分、テレビの前で黙祷をする。
 今日で原爆投下からちょうど75年が経つ。その昔、「被爆から75年間、広島には草木も生えぬだろう」と言われたそうだ。今これを書いているのは広島を走る電車の中だが、窓の外には夏の山が見える。青々とした、生命力に溢れた自然。
 戦後に生まれ、令和の日本に生きる私たちには、「戦争」「原爆」という言葉にどこか現実味の薄さを感じる。
 私も普段は学校で勉強をし、部活に打ち込み、友達とバカなことをして笑って、夜になれば家に帰って寝る。このサイクルを繰り返す。繰り返されるのが当然だとすら思っている。
 「ひろしまタイムライン」の彼らも、戦時下という状況の中で、日々を一生懸命に生きていた。今よりは危機意識は高かっただろうが、きっと昨日と同じような今日が続くと思っていただろうし、今日原子爆弾が落ちてくるなんて考えていなかっただろう。そして、原子爆弾が投下されたあとでも、生き残った者たちは生活をせねばならないのだ。

 私たちは8時15分にしか黙祷しない。しないけれど、75年前を生きる彼らにとって8月6日はいつもと変わらない1日で、8時15分の前も後も、広島に人々は暮らしていた。
 そして私は、あの8時15分の未来の広島を生きている。そのことを噛み締めながら生きていきたいなと強く思った、そんな8月6日だった。


 拙い文章にお付き合い下さりありがとうございました。

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