映画「東京自転車節」感想文

妙に昭和風の主題歌がついていて、これがタイトルにもなっている。昭和の若者たちはよく、理不尽に当て所なく怒って暴力を振った。あるいは理屈っぽく空想的理想をかざして社会を批判した。しかし令和の若者たちはそんなことしない。今ある社会を否定することはもっとも忌み嫌われている。怒ってはいけない。上手くいかないことがあっても自己責任であり、決して社会のせいではない。現状を肯定し社会に感謝することが、真っ当な生き方であり、成功への道でもある。

そういう現代の規範に従って見せることを通して、これを問う映画なのだと思う。

このセルフドキュメンタリー作品の監督/主人公は山梨で運転代行のバイトをしていたけれど、コロナで仕事がなくなり、東京に出てウーバーイーツで働く。映画の前半、ケン・ローチがギグエコノミーの搾取的な性質を批判する動画を友人と一緒に見ながら彼は、「とは言っても俺は働かないといけない」みたいにいう。でもそんなに儲からない。奨学金を返すためにお金を貯めたいけれど、ぜんぜんたまらない。それどころか、食べ物や宿にも困る。

本当は怒ってもいいと思う。けれどそれどころか彼は、お店の人やお客さんにもっと感謝して丁寧に接しようとか、そういう発想しかしない(この「感謝」は、2500円で宿泊したアパホテルに置かれた雑誌から学んだようだ)。とても愚鈍で良い人だ。そして無力だ。自分で自転車のタイヤ交換もできないくらいに。

映画は2020年の新型コロナの状況と呼応して進む。コロナ関連のいろいろなキーワードがメディアを通して普及する。その中の一つ「新しい日常」のために彼は、まずは「身近なシステムを掌握」しようという。それで彼が行うのが、ウーバーイーツが提供する「クエスト」への挑戦だ。期限内にこれだけ配達したら余計に報酬がもらえる、みたいなインセンティブである。それで頑張って沢山走って、沢山配達する。このあたりは自転車を漕ぐ息も荒く、画面も揺れ、ランナーズハイになって威勢よく独り言を言っていて、印象的なシーンではある。しかし、この「クエスト」というのは、配達員にやる気を出させるためにウーバーイーツが設計したゲーミフィケーションの仕組みである。結局のところ彼は、これに参加することを通して、システムを掌握するどころか、ますますガッチリとシステムに掌握される。

映画の最後に彼は国会議事堂の方に向かって走っている。見る人を、国に注意を向けるように仕向ける。しかし彼は自分では国やシステムに対して何かするわけでも何か言うわけでもない。非批判的で愚直な姿を見せることを通して、観客にもどかしさを与え、動かそうとしているようだ。帰謬法的に、もし本当にこういう規範が正しいのならこうなるけれど、おかしくないか、と暗に問うている。しかしオルタナティブを示すことはしない。理想を語ったり、反乱したり、それこそ本当に「システムを掌握」しようとしたりして、見るものを鼓舞する感じにしても良いのに、と思わなくもない。監督はそのようなあからさまな批判は現代では通用しないと考えたのだろうか。たしかに映画のなかの想像上の反乱で鬱憤をはらしてあとは日常に戻るというのでは、労働者の心身を回復させて社会を維持するための「レクリエーション」にしかならない。

ところで、監督は高山建築学校という、飛騨の山奥で毎年夏に開かれる建築のセルフビルドのワークショップに参加してきたそうだ。彼と会ったことはないと思うけれど、僕も何回か高山建築学校に参加したことがあって、その縁でこの映画を見た。建築学校といってもオシャレで洗練された雰囲気は皆無で、ボロボロの古民家で寝食をともにしながらコンクリートを手で練って作品を作る。夜は遅くまで議論して互いの作品を批評しあう。高尚な理想を掲げて現代社会を批判するという、昭和的雰囲気が残っている。高山建築学校では格好いいものではなくても、自分の考えや感じ方をもとにモノを作ることが推奨される。そうやって何かを作っている人をみて励まされ、また作ることを通して人を励ます。

映画には、高山建築学校の肉体労働的で粗野な雰囲気が反響しているように思う。けれども頭でっかちに理想を語り人を鼓舞しようとする部分は抜け落ちている。日常の生活から隔離された中で行う社会批判というのが、レクリエーションになってしまうという問題意識を、監督は持っているのかもしれない。たしかにレクリエーションとして消費されることもあるだろう。しかしそれでも、誰かが矢面にたって,オルタナティブな理想やアイデアを示すことが、なくてはならないと思っている。

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