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ブルーシートの服について(2)プラスチックの不二美

ブルーシートでジャケットを作った話の続きです。写真はブルーシートの「トンビ」。ブルーシートのジャケットは役に立たない感じが良かったけれど、トンビだと雨具として役に立つ感じが出る。パターンは国会図書館デジタルで読める「大日本和田式洋服裁断書」より。この本はオカルト的な数字の扱いが面白い。

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ブルーシートを扱うことは、その材料であるポリエチレンを含む、プラスチックというものについて考えるように促す。

子供のころの僕にとってプラスチックは、偽物の象徴だった気がする。割と素朴でプラトニックな二元論的世界観をもっていた。つまり、本物と偽物という二元論。無垢の木や、金属や、本革、ウール100%は本物に分類される。プリント合板、メッキされたプラスチック、合皮、アクリルなどの化繊は、本物をまねた偽物。今から思えば、周りにプラスチックのようなものが多いニュータウンで生まれ育ったからかもしれない。大学で京都にいったのも、何かしら本物っぽいものに憧れがあったからかもしれない。今ではこの二元論を採用していないけれど、まあ、プラスチックが好きかと言えば嫌いだ。

プラスチックが嫌いなのには、形而上学的な理由だけではなく実際的な理由もある。昔から、いろいろ修理するのが好きで、自転車、時計、機械類をいろいろいじる。プラスチックは、修理するのが難しい。どうも1960年代くらいから以降急速に、人工物の部材はどんどん金属や木材からプラスチックに代替されていったように感じる。最近のものほどプラスチック率が高い。僕は1950年代の自転車や時計を修理して2020年の今、満足に使っている。しかし2020年の今作られている自転車や時計を同じく70年後の2090年に使える状態に修理して使うというのは、なかなか想像できない。そもそも、70年前の自転車や時計は数十年まで直して使い続けることを想定して作られていただろうけれど、現在のものは10年もてば良いという考えで作られているように思える。

そこには計画的陳腐化という目的も隠れているのだろう。最近の人工物は長持ちせず修理しずらい。昔だったら機械的な仕組みで行っていたことを、電子基板で置き換える、さらにはより複雑なコンピューターで置き換えるという傾向によるところもある。陳腐化と修理しづらさに寄与するものとしてそれ以外で大きいのはやはり、材料のプラスチックなのだ。割れると綺麗になおすのは難しいし、材料自体が劣化するとどうにもならない。金属や木は割れても劣化しても修理がきく。本革はプラスチックと同様に材料自体が劣化するとなかなか補修が難しいけれど、合皮みたいにベタベタにはならない。「本物」の素材は劣化が味になる。パティナになる。「偽物」は新品のときが一番美しくて、使うほど、古くなるほど、ただ醜くなる。

プラスチックが今日の社会で嫌われる一般的な理由として大きいのは、自然環境にあたえる悪影響だろう。昔ながらの自然素材は燃やせるし、廃棄しても分解される。こうした素材には動物や人間の体も慣れているから、生物学的なリスクも小さい。しかしプラスチックは石油を使うので持続可能でない。低温で燃やせば有毒ガスを放ち、環境に廃棄されれば体の内側や外側にそのゴミを引っかけた動物を殺すかもしれない。マイクロプラスチックは、予期せぬ仕方で人体に害をもたらすかもしれない。

プラスチックは前世紀において、安くて便利で丈夫で加工しやすくて、と大人気になって普及した。それに当時は、豊かな未来の象徴だったのだろう。掃除で使うような青いポリバケツが発売されたとき、ワインクーラーとして利用されたという嘘みたいな話をきいたことがある。それが今やプラスチックはみんなの嫌われ者だ。現代のエコロジーの意識が高い人たちは、プラスチックの袋やストローをいかに使わなくすませるか、ということに取り組んでいる。

長々とプラスチックをディスってきた。大雑把に言って、プラスチックは醜く、またエシカルでないことが多い。他方で、プラスチックが登場する以前のように自然素材を使って生み出されるモノは美しいし、そういうモノを買うことは、エシカルであることが多い。手作りの工芸品に囲まれた「ていねいな暮らし」的理想。

けれども現代社会においてそういう美しいモノに囲まれて生活できるのは経済的社会的にそれなりに余裕がある人たちだけで、多くの人はプラスチックという悪者に囲まれて生活するしかない。いや、プラスチックが悪者だというのは恵まれた生活を送るから言えることだ。多くの人たちはプラスチックに助けられていると思っている。

ウイリアム・モリスの「ユートピアだより」や柳宗悦の「美の法門」なんかを読んで素晴らしいなと思う一方で、どこか足りないと感じるところがあった。かれらはすべてが調和したような美しい世界と、そこでのモノづくりのあり方を描写する。

しかし彼らが作り出したアーツアンド・クラフツや民芸というのは、基本的に金持ちしか買えない高価なものになってしまう。柳はもともと庶民の生活道具だった「下手物」を称賛したけど、そういうのを今作ろうとすると高価にならざるをえなくて、それなりに余裕のあるひとしか買えない。現代のクラフトは下手物ではない。ある程度の格差社会を前提としてはじめて流通する、富裕層向けの製品だ。同じ機能を持ったものをプラスチックで安く作れるのに、わざわざ手間をかけて作るのだから高くなるのは当然だ。下手物は当時のもっとも安く作れるやり方で作られた。現代の下手物はむしろプラスチック製品ではないのか。

もっとも、モリスも柳も、今は金持ち向けの製品しか作れないけれど、それでも社会全体を変化させていけば、将来は再びみんなが工芸品の美しさを享受できるはずだ、と考えていた。だからモリスは資本主義を批判し、社会主義に傾倒した(このあたりが、現代の「ていねいな暮らし」的なものがもっぱら身の回りにしか関心をしめさないのとは違うきがする。)高い理想を持って、素晴らしい世界を構想することは大事です。特に「現実的」な考えばかりに重きが置かれ、そもそも何を理想とするのかが問われないことが多い現代においては、なおさらです。モリスや柳の本を読んで、たしかにそういう社会はいいよね。素晴らしいねと思う。モノを作ることがより良い社会を作る一部になりうる、ということに希望をもつ。経済もエコロジーも含めて理想的な社会像を描いて(たとえば格差がなく、暴力や支配がなく、かつ自由で、弱者やマイノリティが排除されず、多様性が尊重されていて、動植物の権利が認められていて、CO2排出量ゼロ)、そこでもなお可能な物作りのあり方をデザインするというのは、現代においてぜひ必要な探究だと思う。

一方で、その理想社会に居場所がないように思えるプラスチックのようなものたちのことが気にかかる。いや、柳は美醜の二元を超えた「不二美」を唱えているのだから、その理想はプラスチックを排除するものではないはず、と言えるだろうか。

「社会に居場所がない」ということで思い起こされるのは、自分がホームレスになるかもしれないということだ。それが、ブルーシートの服を作ろうと思った個人的な理由となっているのかもしれない。高校生のときに部活の先輩に横浜駅のコンコースで、「あれがお前の将来の姿だ」と、ホームレスの人を指さしながら言われた。今でもそのことを覚えているのは、ちょとトラウマになっているからかもしれない。しかし当時の僕はその言葉に「そうかもな」と思ったのだ。自分はホームレスになるかもしれない。ブルーシートで服を作ることができれば、ホームレスになったとしても自分で服を作れるだろう。いや、誰だって根本的なところではホームレスなのだから、いつだって自分がホームレスになるかもしれない前提で物事を考えたほうが良い。そういう想定が欠落した社会というのは残酷になるだろう。その社会においてホームレスがどのていど尊厳を持っているかで、その社会の文化的な程度が判断できる。

僕は人間の社会には居場所がないかもしれないと思うと同時に、モノの世界には居場所があるように感じていた。モノの分解修理だけでなく、絵をかいたり何か作るのが好き。あと自転車旅行が好きで、高校や大学のときによく野宿で旅をしていた。坂を上るのはつらいし、雨が降ればびしょぬれになる。何かを作っているときや自転車旅行をしているときは、自分がモノであり、この世界の一部であると感じられる。それが嬉しかった。

柳が「美の法門」で取り上げている、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という親鸞の言葉が僕は好きだ。「善人さえなお往生をとげることができる。だから悪人の往々は、もう言うもおろかなほど、きまりきったことなのである。」(野間宏「歎異抄」)自力で善行をつめば救われるということはなくて、自力にたよらず他力にたよることで救われる。私たちは悪人だから他力にたよることができる。そんなことを言っている。僕は親鸞も念仏も信じていないし、仏教の文脈での正統的な解釈には詳しくないけれど、この言葉には本質を突いていると感じる。

どうしても、自分は悪人ではなくて善人だとか、動物ではなくて人間だとか、無生物ではなくて生物だといった、アイデンティティに、価値を求める。そしてこの価値の序列を上っていくための条件命題に、あるいは予測可能性、コントロール可能性に、しがみつく。こうすれば徳を積める、成長する、モテる、信用される、スキルが伸ばせる、生産性が上がる、お金がたまる、イイネが増える、云々。しかしそういう「自力」は、結局は既存の価値の序列のなかで凝り固まることであり、いつまでたっても救われない。デザインやモノづくりもまた、価値を高めていくことだとしばしば考えられる。整合性のないところ、問題があるところ、醜いところを少しずつ取っていって、進化させていく。それ以外のやり方があるのだろうか。しかしそれでは美醜の二元論にとらわれているのであって、「不二美」に至らない。

モノを作っているときや、自転車旅行をしているときに、自分がこの世界の一部であると感じる。モノを完成させたり峠を上りきるのは嬉しいけれど、そのためだけに作ったり走ったりするのではない。自分がモノと区別されないというところに、何の役にも立たないところに、救いがある。「他力」ということを、勝手にそう理解している。

もちろん今日のエコロジーの問題、気候変動の問題にたいして、より良い行動をとることは大事です。CO2の排出を減らすとか、プラスチックの利用を減らすという善行を積むべきだし、より根本的なところでいえば、ポスト資本主義社会を実現する必要がある(市場に依存せずに暮らすことを可能にするコモンズの領域をすこしづつ広げていくことが大事だと考えている。それについてはここや、ここに書いた)。計画的陳腐化を要請するのも資本主義である。ところがもっと根本的なところでいうと、「将来のあるべき姿を想定して、そこに到達すべく物事をコントロールしていく」という、近代の非常に基本的な考え方を反省しないといけない気がする。人々の行動も自然の振る舞いも完全にコントロールすることはできない。コントロールしようとして堅い枠をはめるほど、そこから予期せぬ裂け目が生じる。河川をコンクリートの護岸で覆ってダムを作り保水量や流量を計算可能にすることで、土壌の水や空気の流れが遮断されエコロジーのバランスが崩れ水害が起きるように。誤解してほしくないけれど、「あとは野となれ山となれ」ということを言っているのではない。自分の行いには責任がある。しかしその責任は、自分が物事をコントロールできるというところに由来するのではない。コントロールできないこと、意図せぬものを受け入れた上で、応答をつづけることに、責任(応答可能性)がある。それは物事の存在の根本的なところのよくわからなさを受け入れることでもあるんだろう。

社会であれ、エコロジーであれ、全てが調和した状態のようなものを構想するときに、どうしてもその調和を乱すと思われる異物を排除すべきということになる。異物を排除することでコントロールできるようになると、持続可能になると、理想に近くと、想像されている。かくして、雑草やホームレスや外来種やプラスチックを排除しようという話になる。近代は、というか農耕を始めたあたりから人類は、無矛盾で定常的な存在というものを信じるようになった。ティモシー・モートンがアグリロジスティクスとよんでいるもの。その無矛盾で定常的な枠組みのなかで自然はコントロールの対象となる。農耕開始以来のこの考えが、現代の環境問題の根本にある。しかし調和した持続可能な社会や自然というのは幻想だ。存在はいつだって亀裂や矛盾をはらんでいる。本物と偽物、自然と社会といった二元論はもう役に立たない。そういった安定した地盤が無いことは、不気味であり不安にさせる。しかしそれは同時に、自分がモノと区別されなくて結構、役に立たなくて結構という救いでもある、と思う。

本物と偽物、自然と社会といった二元論が失われたのだから、もはやプラスチックは人工的でも、偽物でもない。美醜の二元にとどまらない。しかしプラスチックの不二美は、柳が言うように静かなものではなく、不気味で不安なものだろう。プラスチックは現在の酸素のある地球を生み出した生き物たちの、ミイラ、お化け、ゾンビ、フランケンシュタインの類だ。死んだのに起こされて、死に切れない。でも僕たちもまた死に切れていないし、そもそも存在は石でも水でも何だって死に切れていない。静かになりきることはできない。宇宙は常に逸脱してきた。ビッグバンも、局所的にエントロピーを食べる生命も、世界を分節する人間の言葉も、資本主義も、プラスチックも、いつも静けさを破ってきた。プラスチックの生産と利用は縮小していくべきだろう。だけれどそれは、悪者を排除するというロジックではなく、鎮魂し、成仏させる感じで進むといい。僕もあなたもプラスチックであるということを忘れてはならない。


参考文献

ウイリアム・モリス『ユートピアだより』世界の名著52ラスキン・モリス、中央公論社(1985)
野間宏『歎異抄』(1973)
柳宗悦『美の法門』岩波文庫(1995)
Timothy Morton "Dark Ecology" Columbia University Press, 2016






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