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裁きの日

学位論文審査の公聴会が終わりました.教授から頂くことのできる中でかなり甘い飴に相当するであろうメール「件名:ご苦労様」が,その日の夜のうちに送られてきて,あまり経験したことのない浮遊感を覚えました.

そもそもこの公聴会を行って学位が受理されないというパターンはあまりありません.発表を練り上げる前の段階において,外部の教授の先生との予備ディスカッションや所属研究室の先生方とのミーティングを経て,公聴会に進むかどうかを”自分で”決断することになります.

自分自身,自らの研究成果に対してどれほどの再現性があって,それがどれほど柔い地盤の上に立てられた塔であるかというのは嫌と言うほどわかっています.新しい領域に踏み込んで適当に組んだ実験デザインはだいたい失敗するし,それをまともに解釈しているとどんな仮説も否定されていってしまいます.PCRの件でにわかに流行りの兆しがある統計学では,これを第一種の過誤と呼びますね.効果のないものを効果があると誤ること(第二種の誤り)がないようにすればするほど,効果のあるものも効果がないと誤って却下してしまう(第一種の誤り)可能性が上がっていくのは自然の摂理であるというわけです.私はこういう個人の心配りが,科学をそれなりの信頼性のある学問として在らしめてきたと思っていました.
(ただしこれは,実験デザインが完璧でない場合の話であって,よくできた研究者なら一つの結果を得るためにパラレルな実験手法を間違いなく選び,迫力(結果の解釈が明快)と確からしさ(結果が必要十分数ある)の備わった研究をすすめていきます.ほんと,信じられないくらい博士の生活は人によって違います.)

ところが,自分では「またこんな取るに足らないまとめができたな.」なんて思っていても,先生方は皆,価値のある研究だと評価してくれたりするんですよね.投稿した論文のreviewにも,「曖昧な現象に対する難しいアプローチを良く取り組んだ」と.そうそう.そうなんですよ.これはすごく難しい!だからこの結果が得られたのはチャレンジングですごい!それは分かっているけれど,どうしても自分自身を一番疑っている自分がいて,認識の乖離に不安になったりもします.しかしこれはたぶん,こういうものなのでしょう.誰しもが,自身の研究結果に対して自分が一番の批判者であるべきだけれども,結局はそんな属人的なバランスで科学が成立しているわけではないのですよね.科学はある意味で「第二種の誤りを許容し,皆で訂正していくプロセス」です.すこしはそのことを理解しているつもりでしたが,まだまだ足りていなかったように思います.世界中の研究者は,私の思っている以上に,新しい結果に対して受容的なのです.彼らが望むのは,再検証のために必要な嘘偽りのない十分な情報と,過誤を恐れずに打ち出す新しい論(撹拌力,とでもいうべき?いや,波動?)なのかもしれません.願わくば,自分の言葉がまた誰かの考えを横切って,その理解の助けになればなぁと思います.そのためにはまだまだやり残していることがあるんですが...

こうやって,周りの人にひたすら助けられて,ようやく裁きの日の夜が明けました.特にメンタル面.あきらめるタイミングすら与えず,結果のアウトプットを助けてくださった(今現在もですが)准教授の先生がいなければ,間違いなくゴールは見えていなかったと思います.


今朝は友人とLINEをしながらタイミングを合わせて朝日を拝みました.朝日なんてちゃんと見るのは珍しい.ほんとうにいつぶりでしょう.建物の陰になってだいぶ日の出の時刻からは遅れたけど,さっきまで下弦の月が浮かんでいたきれいな青空に,形を留めない光が昇るのを見ました.

これからはもうちょっと早起きして生きていきます.

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