#72-8 荒井由美の近くに村井邦彦
1972年7月5日シングル「返事はいらない」で荒井由実としてデビュー
立教女学院から多摩美術大学に入学した1年生。
かまやつひろしがプロデュース。東芝音楽工業から。
前年、加橋かつみに「愛は突然に…」を提供し、作曲家としてデビュー。
まだ「荒井由美」のままで。
加橋は、1970年2月、『ヘアー』の打ち上げで、川添象郎と加橋が大麻取締法違反容疑で逮捕。そこからの復活の最中。
川添の父、川添浩史は港区麻布台)にあるイタリアンレストラン「キャンティ」の創業者。風吹ジュンは元妻。尾崎豊の・・・この辺りの人脈は『キャンティ物語』、林真理子の小説『アッコちゃんの時代』に詳しい。
荒井は中学時代からキャンティに通っていたというから普通じゃない。
キーパーソンは近くにいた村井邦彦である。
タイガース、テンプターズ「エメラルドの伝説」、「翼をください」
1969年山上路夫とアルファミュージックを設立。後にアルファレコードとしてYMOなど成功
荒井はその村井の勧めでデビューとなった。
1973年11月20日に東芝EMI株式会社からファーストアルバム「ひこうき雲」をリリース。デビューシングル「返事はいらない」も入っている。
バック・バンドを務めたキャラメル・ママ(のちのティン・パン・アレー)だからアルファ系(YMO周辺)だね。松任谷さんがキーボード。
大好きなプロコル・ハルムやミッシェル・ポルナレフの影響あり。
1972年フランスでは、ミッシェル・ポルナレフ「愛の休日」が大ヒットしていて、日本の12月オリコン7位。
(私は、この人はそのファッションからグラムロックの人だと思っていた。1972年3月に「恋する季節」でデビューした西城秀樹はグラムロックの衣装でしたけど。1972年10月8日、『リブ・ヤング!』に出演したキャロルは「ロキシー・ファッション 出演者募集」にジョニー大倉がハガキを出した。)
当時、日本はフォーク全盛。
ベトナム戦争の反戦フォーク、ボブ・ディランが日本に入ってきた。学生運動と一緒に盛り上がったけど、それも70年代に入るとパッタリ。
1972年7月よしだたくろう『元気です。』シンガーソングライターとしてオリコン史上初の1位。松任谷正隆がピアノ。
1972年、アンドレ・カンドレは芸名を井上陽水と改め、シングル「人生が二度あれば」で再デビュー。
1972年6月GARO「学生街の喫茶店」作詞は山上路夫
さだまさしと吉田正美によるフォークデュオ「グレープ」は1972年結成
かぐや姫は1972年4月 アルバム『はじめまして』を吉田拓郎らの協力を得て制作
一方、アルファには「赤い鳥」⇒紙ふうせん、ハイ・ファイ・セット(「卒業写真」は荒井の曲)がいた。
スクールメイツ出身のトワ・エ・モワは札幌オリンピックのテーマ曲「虹と雪のバラード」をヒット。作詞は医師の河邨文一郎、村井の作曲である。
まあ、日本のフォークはかなり屈折していたと思う。反戦する戦いもなかったし。
むしろ「自立した女性」「女性シンガーソングライター」というくくりが合っているかも。1972年はキャロル・キングの「つづれおり」、ジョニ・ミッチェル「サークル・ゲーム」『いちご白書』⇒荒井はバンバンへ
1970年代の中頃に荒井由実が「四畳半フォークなんて大嫌い」と言ったという説がある。本当にそう言ったかはわからないけど、この荒井のコトバは一人歩きして何度も引用されていたのは確か。私もかなり読んだり聞いたりした。
実際、松任谷になるとおしゃれ路線に入っていったからね。
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