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百姓一揆の話し足りない「     」

なんの気無しに岡倉覚三著「茶の本」を読んでいたところ


「水さしの役に立つところは水を注ぎ込めることのできる空所にあって、その形状や製品のいかんには存しない。虚はすべてのものを含有するから万能である。虚においてのみ運動が可能となる。おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動できるようになるであろう」

という一節が。

なんか既視感あるなぁ〜と思っていたら、え?これ

ゆらゆら帝国「空洞です」でないの?!

さっきの「茶の本」の話をバッカのような言い方に改変すると
「じょうろのいいところって、形とか性能がいいとかじゃなくて中に何もないとこだよな。何もないって何でもあるってことじゃん、忙しかったら何もできないし。『いいよいいよ〜』って他人に言える人は、自分を許せてるんだよ」
ってところか(何が?)?

空洞ですの歌詞にはこうある。

ぼくの心をあなたは奪い去った
俺は空洞 でかい空洞
全て残らずあなたは奪い去った
俺は空洞 面白い
バカな子供が ふざけて駆け抜ける
俺は空洞 でかい空洞
いいよ くぐり抜けてみな 穴の中
どうぞ 空洞

空洞の中、無いってことがあるってことなのか。

歌詞の続きでは

なぜか町には大事なものがない 
それはムード 甘いムード
意味を求めて無意味なものがない

と続けるのだが、町という箱の中がギチギチになるより 
余地があることによって機能するということなのか。

ゆらゆら帝国が「完全に出来上がってしまった」と言って解散したのもうなずける話で、「いいよ くぐり抜けてみな 穴の中」=「おのれを虚にして他を自由に入らす」
空洞、無になったことがこのバンドの到達点だったんだの。

何もないことを目指す、という話はサカナクション山口一郎さんがよく「いかに無作為を作為的にやるか」を論じているが、無我の境地ってことか。何もないをいかに何もなさそうにやるか。

ゆらゆら帝国だけでなく、フィッシュマンズも引用させてほしい。

フィッシュマンズの「すばらしくてNICE CHOICE」では

時には気分 時にはスマイル
時にはロマンス 時には空
時にはトリップ 時にはトラベル
(中略)
目的は何もしないでいること
そっと背泳ぎ決めて
浮かんでいたいの
行動はいつもそのためにおこす
そっと運命に出会い 運命に笑う
そっと運命に出会い 運命に笑う

目的は何もしないでいること…これ空じゃないか
色即是空じゃんか(母に教えていただいた)。
本質はいつまでも移り変わる。

ダブというジャンルも流れが移り変わる様子にマッチしているように思えてきた。一時として同じ波は来ない

いつもクラスで滞空している僕のスタイルは間違っていなかったのかも(勝手に浮かんでろ)。
そっと出会う。そっと笑う。

「新しい人」 でも

夜明けの街まで 歩いていったら
こんなにもきれいなんだな
何にもない グルッと見回せば
イライラも 歯がゆさも

茶道みたいなこと言ってる。

この2大バンドは、もう二度と目の前には姿を表さないだろう。1つは空洞に。もう1つは空席になってしまったからである。

再結成、もし生きていれば…など
ナンセンス。

無いことは、余地があるということだ。

詰め込まず、空っぽにしてしまおう。

空間に、まだ定まっていないところ、道(未知)になっていないところ、そこに大事なものがあるはず。
 
それも空間なのかもしれないけど。

「     」
👆プレイリスト👆
文章を音楽で補完しています

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