ライフインホワイト 11

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 真っ黒な闇の中でふわふわと宙を漂っているような、そんな不思議な感覚。
 なぜだか俺はその感覚を知っている。
 右も左も、前も後ろも、上も下もわからない。
 自分と他人の境界が曖昧になるような、そんな心地。
 微睡んでいるのか、或いは夢の中のなのかわからない永遠の微睡み。
 俺はきっとこの場所を知っていた。

 「――さんっ!! ――!!」
遠くで誰かの声がしている。
 何処かで聞いたことがあるような気がする。
 誰だっただろう。
 「――!! ――さんっ!!」
 女性の声だ。
 穏やかで物静かな女性。
 あぁ、俺はその人のことを知っている。
 半ば消えていた感覚と意識がじわりと滲み出すように、少しずつ動き始める。
 「――野さんっ!! ――宇野さんっ!!」
 俺の名前が呼ばれている。
 心配そうな声。
 そうだ、俺は宇野耕輔。
 俺はこの声の主を探していた。
 暗闇の微睡みの中から意識が急速に浮上していく――。

 「はぁッ……!!」
 「!! 宇野さん!!」
 起き上がる。
 どうやら意識が消えていたようだった。
 「はぁ……はぁ……」
 心拍数が異様に跳ね上がっていて、鼓動の音がうるさかった。
 自分を落ち着けようと胸に手を当てようとした。
 「……!! 痛ッ!!」
 ほんの少し動いたところで後頭部に激痛が走った。
 「宇野さん、無理なさらない方がいいです……!!」
 胸に当てようとした手を後頭部にまわし、うずくまるように背中を丸めた。
 その丸めた背中にそっと暖かい手が添えられた。
 後頭部の激痛と目の前が微かに揺れる感覚が意識を手放す前の記憶を少しずつ思い出させる。
 襲われたのだ。
 背後から。
 抵抗する間もなくあっけなく後頭部を殴られ、意識を手放してしまった。
 なるほど、具合の悪さや激痛の原因はそれだ。
 おもわず後頭部に当ててしまった手を見れば少し血に濡れていた。
 幸いなことに目が覚めた、ということは死んでないということでおそらく脳を損傷する様なダメージはなんとか回避できたということだろう。
 襲われたとき、無意識に最悪のダメージを避けることが出来たのだろうか。
 かつての自分が数々の死線をかいくぐってきたことに深く感謝してしよう。
 さて、少しずつだが記憶の整理も進んできた。
 俺は綾瀬さんを探していた。
 綾瀬さんのバイト先へ行く途中に怪しい路地を見つけた。
 路地の中で微かに残った血痕を見つけ、それから有村会長に会い、事件に『協会』や能力者が関わっていることを知った。
 それから一度態勢を立て直そうと帰路に着いたところで、襲われたわけだ。
 迂闊だった、恐らく事件の犯人グループにつけられていたのだろう。
 そして、今こうして起き上がったわけだ。
 しかし、だとしたらチャンスかもしれない。
 ここは恐らく敵のアジト。
 綾瀬さんも何処かに居るはずだ。
 思うように体も目線も動かせなかったが周囲を見渡す。
 何処かの廃倉庫のようだった。
 ガラスの割れた窓の外には森が見えた。
 山の中にでも連れてこられたのだろうか。
 「痛……ッ!!」
 痛みが不定期にぶり返す。
 背中を丸め、痛みに耐えるほかない。
 「だ、大丈夫ですか……!?」
 「あ、ありがとうございます……」
 背中に当てられた手が優しくさすってくれた。
 ん?
 違和感があった。
 さっきから誰か女性が隣に居てくれている。
 しかも俺の名前を知っている様子だ。
 おもわず痛みを忘れて、隣の女性の顔を見た。
 「……え?」
 「はい?」
 おもわず出てしまった間抜けな声に反応してくれたのはよく見知った女性。
 目を疑いたくなるような光景だったが後頭部に走る痛みが夢の続きでないことを物語ってくれていた。
 「綾瀬さん?」
 「? えーと……大丈夫ですか、宇野さん。その、まだ眠ってらっしゃった方がいいのでは……」
 「あ、いや、その、心配は非常にありがたいんだけど、とりあえず大丈夫というか……。え? 綾瀬さんだよね? 本当に。俺の見てる幻覚とかじゃないよね?」
 「えと、はい。あの、綾瀬早紀です」
 俺の質問の意図がよくわかっていないのか目の前の俺の探し人――綾瀬さんは丁寧にお辞儀をしてくれた。
 きっとまだまだ対処するべき問題は山積みだし、後頭部の痛みや視界の揺れは相変わらずだったのだが、その時俺が出来た反応は――
 「……ハァーー……」
 ――安堵のため息を吐くことだった。
 無事だった。
 生きていてくれた。
 今、この瞬間はそのことに安堵するべきだと、そう思った。
 しばらく安堵を噛み締めるような間が空いた。
 その間も綾瀬さんは何も言わず、俺の言葉を待っていてくれたようだった。
 幾分か落ち着き、改めて綾瀬さんの顔を見る。
 彼女は少しだけ無理しているのがわかる、しかし優しい微笑みを浮かべてくれた。
 きっと怪我している俺を心配させないようにしようという彼女の大きな優しさからくるものだろう。
 彼女自身が激しい不安や焦燥に襲われているだろうに。
 窓の外が改めて目に入った。
 相変わらず森の中だったが、気が付いたことがあった。
 明るい。
 「あれ? 朝?」
 襲われたのが夜中だったのでてっきり夜だと思っていたが外はすっかり日が昇っているようだ。
 もしかしたら朝どころか昼なのかもしれない。
 「あの、今何時かわかりますか?」
 「……」
 訊ねてみたが綾瀬さんは申し訳なさそうに無言のまま首を横に振った。
 部屋の中を見渡してみてもがらんとした室内が目に入るだけで時計はおろかそのほかのものも見当たらない。
 なるほど、監禁するにはいい条件だ。
 ため息を吐き、少し考えてまた質問する。
 「俺がどのくらい寝てたのかは分かります?」
 「え、と。宇野さんがどうやって此処に連れてこられたのかを存じ上げないので正確にはわかりませんが、夜のうちに運び込まれてきてから今までなら、なんとなく」
 「どのくらいですか?」
 「半日も経っていないぐらいだと思います」
 12時間は経過していないぐらいのざっくりしたものであったが何も情報がないよりはありがたい。
 襲われたときは確か、正確な時間を確かめてはいなかったが零時半前後の終電に乗って家路に着いたはずだ。
 それから最寄り駅に降りて、背後から襲われたのだから午前一時前ぐらいだったのだろう。
 そこからこの廃倉庫に移動して、運び込まれて半日弱。
 ここがいったい何処なのか見当もつかないが、仮に移動に一時間程度の場所だとすれば、大体昼前ぐらいの時間なのであろうか。
 そうであれば充分寝ていたように思えるが現状はそれほど回復していない。
 かつての自分ならもう少し回復していたように思えた。
 それだけ自分が普通の真人間になったということだろう。
 それを喜ぶべきか悔しがるべきか、今の俺は毎回迷ってしまう。
 このままでは余計な考えに没頭してしまいそうだった。
 さっさと綾瀬さんを連れて逃げる算段を考えるべきだ。
 思考を切り替えようと綾瀬さんの方を見た。
 先程まで微笑んでくれていたはずの綾瀬さんが項垂れていた。
 「だ、大丈夫ですか?」
 心配される側だったが思わずそう口に出た。
 綾瀬さんは大きく息を吸った後、今にも泣き出しそうな震えた声で言葉を漏らした。
 「私の……せいですよね……」
 「え?」
 「……宇野さんがそんな大怪我してしまったのも、今こんなところに巻き込んでしまったのも……」
 それはきっと俺が起きるまでの間中、彼女が考えていた事なのだろう。
 夜中に突然後頭部から血を流した知り合いが運び込まれ、そのまま起きないなんて、彼女からすればそんな怖い事はないだろう。
 もしかしたらこのまま目が覚めないかもしれない。
 きっとそういうことも思っていたはずだ。
 だから――
 「そんなことないです」
 ――立ち上がった。
 後頭部の痛みも視界の揺れも全部無視して、立ち上がって見せる。
 立ち上がって、項垂れた綾瀬さんの方に歩み寄る。
 「綾瀬さんを助けようと思って行動していたのは確かだし、それで襲われて、こうして捕まってしまったのも確かだけど、こんなものは大したことないです」
 綾瀬さんの肩を掴むと彼女は顔を上げてくれた。
 今にも泣いてしまいそうな顔の彼女に、できるだけ平静を装って笑顔を見せる。
 俺なら、できる。
 「綾瀬さんは知らないと思うんですけど、俺、世界を救ったこともあるんで」

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