弦交換

 「あ、やばい……」
 脳裏に突如としてそれが思い浮かんだのは、ちょうど居間でのんびりとコーヒーを飲みながらテレビを眺めている時だった。
 より状況を説明移するならば自宅の居間ではなく、数週間ぶりに訪れた自分の暮らす部屋よりも数十倍立派な恋人の家での事だった。
 俺――風島清景が突然口を開いたことで隣に座った恋人の視線が俺の方を向いた。
 不思議そうに俺を見つめる恋人――琴占言海に俺も視線を返した。
 

1/
 「なんだ急に。何かあったのか?」
 言海は読んでいた単行本に栞挟んで閉じたあと、改めてそう訊ねた。
 急に声を出してしまったせいでどうにも大きな問題でもあるのかと思わせてしまったのかもしれない。
 言海はいつもの強い意志を宿した双眸に期待の色のようなものを混ぜているようだったが、残念ながら本当に些細なことに気付いただけなのだ。
 手に持ったコーヒーカップに口をつけてから、「大したことじゃないんだが……」と前置きを置いてから口を開く。
 「明後日サークルのライブなんだが丁度新しい弦を切らしてたな、と思って」
 世の中の多くのギターを弾く人間はライブの前日からライブの直前までの間に弦交換を行う。
 俺もその例に漏れずライブを行う当日の朝に弦交換を行うのだが、そういえばその交換用の新しい弦のストックを切らしていたことに気付いたのだった。
 「だから明日講義終わりに楽器屋に行ってこようかな」
 明日は丁度午後一の講義で終わりなのでそれから楽器屋に行けば、その後のバンド練習にも十分に間に合うだろう。
 「なんだ、そんな事か」
 予定を思い浮かべながら喋っていると隣の言海が口を開いた。
 俺の抱える問題が思っていた以上にどうでもいいものだったのか言海は笑って、テーブルの上に置かれていたコーヒーカップを手に取った。
 「いつもは家にストックを置いとくようにしてるから一回忘れると危ないんだよな」
 「確かに普段から常備しているものほど忘れてしまいがちではあるな」
 ふむ、と息を吐き出してから言海は手に持ったコーヒーカップに口をつけた。
 おそらく自分も何か忘れているものが無いか考えているのだろう。
 そんな言海の姿を見て、俺も改めて他に買い忘れているものが無いか考え直してみる。
 しばし、無言の間が流れる。
 適当につけたままにしてあるテレビの中では映るタレントたちがクイズを通して自身の知識を披露していた。
 俺も言海もそんなテレビ画面を視界に収めながらコーヒーを嗜む。
 豊かな香りが鼻に抜け、適度な苦みと酸味が舌を刺激する。
 言海の家に居置いてあるコーヒー豆は俺が家で飲むような安い豆ではないので美味しい。
 それなりに値段の張る良い豆なのだが、言海は一人の時にそれほどコーヒーを飲まないので専ら俺がこうして言海の家を訪れた際に使用している。
 そこまでぼーっと考えて、一つ思い出したことがあった。
 「言海、そういえば丁度砂糖が切れそうだったぞ」
 コーヒーを淹れる時に気付いた事だった。
 俺はブラック派だが言海は砂糖を入れるのでその時に台所で砂糖の残りが少なくなっているのを見かけていた。
 俺がそう指摘すると、言海は俺を指さした。
 「キヨ、それだ」
 どうやら言海が忘れていたものは砂糖だったようだった。
 言海はすぐにテーブルの上に無造作に置かれたスマートフォンを手に取り、メモを起動させていた。
 お役に立てたのなら光栄だ。
 スマートフォンを操作する言海を横目にコーヒーに口をつける。
 「……弦交換、というのはそんなに重要なものなのか?」
 スマートフォンの操作を続けながら言海がそう訊ねてきた。
 話がギターの弦の話に戻った。
 「まぁ、そうだな。少なくともライブ前には交換したいものではあるな」
 「ほう。そんなに音に影響が出るものなのか」
 「エレキギターの弦は基本的には金属で出来てるから、時間が経てば錆びてしまうし、錆びてしまえば音は変わるよ」
 「なるほど」
 納得したのかしていないのかよくわからない返事をして言海もコーヒーに口をつけた。
 言海は昔から音楽にそこまで興味のある方ではないので、先ほどの質問も場つなぎ的に口にしただけだったのだろう。
 思えば、耕輔のお母さんが教えてくれていたピアノも最初は三人で習い始めたのだが、最後に小学校を卒業するまで習っていたのは俺だけだった。
 もしかしたらやってしまえばなんでも出来てしまう言海はどこか遠慮していたのかもしれない。
 そんな考えも頭に過ぎったが、口に出すことは無い。
 そういう事は口に出さない関係。
 「明後日、たまに私も行くとするかな」
 「え?」
 「締め切りはまだ先だからちょうどスケジュール的に暇ではあるんだ」
 言海は壁にかけられたカレンダーに目を向けながらそう言った。
 カレンダーには長い矢印が何十日にも渡って伸ばされており、その矢印が来月の下旬で途切れていることを俺も知っている。
 「ま、いいんじゃないか」
 言海が時間に余裕があるなら、断わる理由はそう多くない。
 俺は言海の言葉にそう返した。

 
2/
 「おー、清景」
 翌日、一日の講義を終えて予定通り楽器屋へ向かおうと大学の構内を歩いていると声を掛けられた。
 「ん。あぁ、秋平」
 振り返ると椎名秋平が眠そうに欠伸をしながらこちらに歩いてきていた。
 「随分、眠そうだな」
 「さっきまでの講義中寝てたからな。次の講義も寝るけど」
 「あぁ、そう」
 いつもの事なので特に文句を言ったりはしない。
 「清景もこれから講義か?」
 「いや、俺は今日もう終わったから楽器屋に行ってくる」
 「あぁ、明日お前出るんだっけ?」
 秋平も同じサークルに所属しているのでライブのスケジュールは把握している。
 「明日出るんだが、ちょうど弦のストック切らしててな」
 「ふーん、なるほど」
 「秋平は出ないんだっけ?」
 「明日バイト入れちまったからな」
 そこまで言って秋平は時計を確認した。
 「おっと、そろそろ俺は行くわ」
 「そうか」
「単位がやべーから遅刻も出来ねぇ」
 秋平らしい理由を告げて秋平は片手を上げた。
 「じゃあな」
 「あ、そうだ。先輩に会ったら練習までには戻るって伝えといてくれ」
 歩き去る秋平の背中に伝言を託しておいた。
 

 秋平と別れ、改めて楽器屋に向かおうと大学の正門を抜けようとしたところで妙な人だかりが目に映った。
 「……なんか、前も同じような光景を見たような記憶があるな」
 妙に女学生の多いその遠巻きな人だかりでなんとなく事態を察した。
 呆れ混じりにため息を吐き、意を決して女生徒の中を抜けていく。
 途中、露骨に嫌な顔をされたりもしたが気にせず人混みを抜けると、そこには予想通りよく見知った目鼻立ちの整った背の高い男が正門の柱に寄りかかるように立っていた。
 男の東洋人ではありえない青い瞳が人混みから抜け出した俺の姿を捕らえた。
 「よ、キヨ。待ってたぜ」
 「こんなとこで何してんだ、ジェームズ」
 男――ジェームズ・ハウアーは周囲を気にすることもなく気さくに片手を上げて声を掛けてきた。
 「いやぁ、キヨが今日楽器屋に行くってたまたま言海から聞いたから俺も付いていこうと思って」
 ジェームズは嬉しそうに笑顔で答えた。
 「行くんだろう?」
 「行くけど、長居は出来ないぞ。この後、本番前の練習入ってるから」
 「いいよ別に。俺、今日暇なんだよ。連れて行ってくれよ」
 ジェームズは懇願するように両手を合わせた。
 これではどちらが年上なのかわからない。
 俺たちのバンドではジェームズが最年長のはずなのだが。
 ため息を吐いてから口を開く。
 「別にいいけど」
 「よっしゃ」
 「でも、本当にすぐ帰るからな。遅れると久我先輩に迷惑をかける」
 「おー、先輩と一緒に出るのか」
 
 了承したはいいがジェームズと楽器屋へ行くといつも長居してしまうので先に先輩にメッセージを打っておくべきかどうか、頭の隅で考えながら駅へと向かった。

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