『主人公交代』
その空間は微睡みに揺蕩うようだった。
前後は無く、上も下もない。
体に感じる重力は無く浮遊するような不思議な感覚だった。
空間に色は無く、白でも黒でもない。
ただ、微睡みの中の意識だけはしっかりと不快を感じていた。
少しずつ、自分の意識が自分のモノでなくなっていく感覚。
耐えがたいほどの不快感。
体は動かず、意識すらもうまく動かなくなっていく。
この感覚はきっと、死に似ているのだろう。
終わりの時はすぐそこに来ていた。
1/
「ん……――」
目が覚めると、夕暮れに照らされた教室だった。
どうやら、HRの後に寝てしまっていたらしい。
教室の中にはまだ数人の生徒が残っていた。
誰もこちらを気にしていないようだった。
(誰か起こしてくれてもよかったのにな……)
思わず頭の中で呟いてしまった。
このまま、教室に残っていてもしょうがない。
帰ることにして、枕にしていたカバンを持ち、立ち上がった。
♪ ♪ ♪
数か月前、宇野耕輔は『宇野耕輔』でなくなってしまった。
自分自身と主人公としての能力の全てを引き換えにして、『宇野耕輔』は世界を救った。
世界は救われた。
結果、主人公でなくなった、ただの一般人、宇野耕輔が残った。
しかし、残った宇野耕輔は『宇野耕輔』ではない。
『宇野耕輔』の友人や知人はその些細な、しかし確実な違和感に気付き、自然に離れていった。
あれだけ慕ってくれていた義妹との関係もギクシャクしたものになってしまった。
耕輔が教室に残っていたのも、家に帰って家族と顔を合わせることに少し居心地の悪さを覚えてしまうからであった。
(『宇野耕輔』なら、誰かが起こしてくれたんだろうな……)
夕暮れ色に染まる校舎の中を帰路に着く。
校舎内には部活の生徒の声が響いている。
一人でいる時間が増えた。
一人でいる時間が増えてから、要らないことを考えてしまう。
自分ではない自分の事。
考えるだけ無駄なのだ。
もう過ぎてしまった事を考えても意味がない。
それも自分ではない自分が決めたことを後悔しても、意味など、ない。
失ったものはきっと大きかった。
宇野耕輔も、宇野耕輔の仲間たちも。
失ったそれらに実感を持てないことはきっと幸いだったのだろう。
宇野耕輔から離れていってしまった仲間たちが感じたものより、この気持ちはきっと圧倒的に小さなものだろうから。
校舎から出ると涼しい春風が校庭を抜けた。
青々とした葉が舞い上がる。
目を細めて、その軌跡を追った。
視線の先に一人の少女が映った。
『宇野耕輔』はすべてを失ったわけではない。
幼馴染の二人は宇野耕輔が『宇野耕輔』でなくても、二人は決して変わらなかった。
少し笑って、少女の方へ走り寄る。
「ん? 耕輔じゃないか」
「言海、今帰りか?」
「あぁ、図書室で本を読んでたらこんな時間になってしまった」
「清景は?」
「あぁ、先に帰ってギター弾いてるか、ゲームでもしてるんじゃないか?」
「……お前ら付き合ってんじゃないのか?」
「別に恋人だからと言って、いつでも一緒にいる必要はないだろう?」
「さっぱりしてんなー……」
「まぁ、付き合いが長いとこうなるさ」
主人公はもういない。
ここにいるのはただの一般人だ。
それが『宇野耕輔』の望んだことだった。
「そんなに言うなら、清景の家に遊びに行こう」
「今から?」
「もちろん」
完
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