日没も近い黄色の空を背景に、目の前の丘の上をたくさんの羊たちが移動していた。
 その羊の群れの最後尾で一匹の大きな犬が吠えながら走り回っているのと共に一人の少女もゆっくりと群れを追いかけているのが良く見えた。
 羊の群れの居る丘を緩やかに見上げる様に建てられた家というよりは小屋と言った方がよさそうな建物の軒先で、男は座っていた椅子から立ち上がり少女に声を投げる。
 「キル、危ない事はすんなよ」
 手を振りながら声を掛けると少女――キルはすぐに男――ドレの声に気付き、手を振り返した。
 「――――」
 キルも何事か言ってきたようだったが、ドレの目と耳ではかろうじてキルの口が動いた事が分かっただけだった。
 「いや聞こえねぇよ、普通……」
キルが何を言ったのかわからなかったがこちらからの言葉は届いただろうと考えて、ドレは再び椅子に座った
 「随分、元気な子だな」
 簡素な木製テーブルを挟んで安楽椅子に座る初老の男性がドレに話しかけた。
 「動物を間近で見る機会がそうそうないからテンションが上がってんだよ、アイツ」
 普段表情が乏しいキルだが、今日この場所に着いてから珍しくわかりやすく楽しそうにしている事が多かった。
 普段の日常を街で送るキルとドレにとって、ギルドの依頼で魔物や魔獣と対面することは多くとも動物と触れ合う機会は少ない。
 なので今日、こうして隣に座る初老の男性の家にやって来て牧羊犬や羊の群れに触れたことが余計に嬉しかったのだろう。
 キルが意外と動物好きであることを、付き合いの短くないドレは知っている。
 ああいうところは子供らしい。
 文句のような呟きを漏らしながらもドレの表情もまたどこか柔らかい。
 遠くを走るキルを見つめるドレのグラスに琥珀色の液体が注がれた。
 「……しかし、まさかお前が子供をこさえてるとは思わなんだ」
 「いや、キルは俺の子供じゃねぇよ」
 立派そうなガラス瓶に入れられた琥珀色を自分のグラスにも注ぎながら訊ねた男に対して、ドレはつっけんどんに答えた。
 「あぁ?じゃあ、一体どんな関係なんだ?買ったのか?」
 「……あー……」
 ドレの対応が面白いのか男は琥珀色を注いだグラスに口を付けながらさらに詰めたが、ドレは苦し紛れに呻き声のようなものを漏らすことしかできなかった。
 いつも困る質問だった。
 キルの正体がある以上、そういう質問には答えられない。
 そもそも、キルの正体が云々以前に自分たちの関係性が自分でもよくわかっていないのだから、答えられるわけがなかった。
 その点、ヴェルニアは初対面の時からそう言った面倒な質問をしてこなかったので随分と楽なものだな、と彼女の白衣を着た後ろ姿を思い浮かべた。
 しかし、そんな事をしていてもただただ現実逃避をしているだけで隣の男はニヤついた顔でドレを見たままだった。
 居心地が悪い。
 「……つーか、なんでわざわざ俺をここに呼んだんだよ」
 なので、無理矢理に話題を替えた。
 ドレがわざわざこんな何もない辺境に来たのは隣の男が手紙を寄越してきたからだった。
 男は傭兵時代の数少ない知り合いで、頻繁にやり取りをしているわけではないが時折連絡を取るような仲であった。
 お世辞にも交友関係が広いとは言えないドレが彼とそのような関係を築いているのは、ドレにとっては彼が傭兵としての最初の仲間であり、大きな恩があるからだ。
 だからこそ、ドレは簡素な内容の手紙を受けて、この場所を訪れていた。
 「ん?……あぁ、そうだったな」
 男は話題が変わったことに文句をつけるようなことは無かったが代わりに言い淀んだようだった。
 お互いに踏み込んで欲しくない話題に触れたのだろう。
 ――傭兵なんてやるような連中は脛に傷を抱えてるような連中だから相手が喋らない限り深入りするべきじゃない。
 ドレは隣の男にそう教えられた。
 だから、ドレは今は追及することを止めてグラスに注がれた液体を煽ってみることにした。
 質のいい酒ではないのだろう。
 独特の風味が鼻に抜けていくが、嫌いではなかった。
 「悪くない飲みっぷりだ」
 「アンタが教えてくれたんだ。酒の飲み方も」
 まだ成人もしてない頃の話。
 「そうだったか?」
 とぼけた様に首を傾げて、男もグラスを煽った。
 それから、空になったグラスにまた琥珀色を注ぐ。
 ドレは丘の様子をただ眺めていた。
 酒のせいか、風が心地よかった。
 「……」
 牧羊犬に追われている羊の群れは段々と小さくなっていっていた。
 羊小屋に続々と羊が注がれているようで、キルがその様子を黙って眺めているのも見えた。
 「いい景色だろう?自慢の景色だ」
 自慢げに隣の男が胸を張った。
 「……ああ、いい景色だ。アンタが傭兵をやめた理由もわかる」
 まだほんの少年だった頃、傭兵という名目で戦闘の終わった戦場で物を漁るハイエナ行為が板につき始めた頃にドレは男から話を聞いていた。
 男の実家が代々羊飼いをしている事やその景色の素晴らしさ、そしていつかは戻ろうと思っている事。
 ドレと男は四半世紀分以上の年の差があったが、なんとなくお互いにそういう話をすることがあった。
 その会話から数年後に男は本当にあっさりと傭兵の仕事と儲かるハイエナ稼業から足を洗い、こうして自身の生まれ育った土地を日々眺める様になった。
 「ドレイク」
 景色を眺めていた男の口が動いた。
 昔の名前だった。
 捨ててしまった、傭兵だった頃の自分の名前。
 「お前はなんで傭兵をやめたんだ?」
 思えば、男がドレに対して傭兵としての生き残り方やハイエナ稼業のやり方を教えたのは、傭兵としての自分をどこかに残したかったからなのかもしれない。
 そうだとしたら、俺が傭兵をやめてしまったことにも何か思うところがあるのかもしれない、とドレは考えた。
 隣の顔を覗いてみたが真意がわかる訳もなく、そこには穏やかな男の顔があるだけだった。
 「……成り行きだよ。成り行き」
 かつてドレイク・エストという少年が成り行きで傭兵になったように、ドレは成り行きで冒険者となった。
 キルとの関係性を答えることのできないドレにとって、それ以外に回答のしようがない。
 でも、いつからだろうか、そこに後悔を持つことが無くなったのは。
 巡り始めた思考をドレは意識的に辞めた。
 「そうか」
 ドレの思考が何処まで伝わったのか、或いは伝わってしまったのかわからなかったが男は穏やかな顔のままだった。
 何か話をするべきなのかもしれない、とも思ったが言葉が口をついて出ることは無く、結局座っている木製の椅子の背もたれに寄りかかるだけだった。
 隣の男もそれ以上何かを言おうとはしなかった。
 「ドレ……」
 不意に声が掛かった。
 声の方に目を向ければ少女と大きな犬が一匹。
 キルと牧羊犬が仕事を終えて、戻ってきていた。
 空を見上げれば、いつの間にか星の瞬きも見え始めていた。
 「おー、キル。どうだった?」
 「……羊がいっぱいいた」
 なんだそれ、という感想だったがドレにはキルが楽しそうにしているのが分かったので、それ以上野暮なことは言わなかった。
 牧羊犬も隣の男の方へのそのそと歩いていった。
 羊の群れを追いかけていたときはあれだけ機敏に動き回っていたが、近くで見ると意外と老犬であろうことが分かった。
 「それじゃあ、そろそろ家へ入ろうか」
 男はそう言ってグラスに残っていた酒を飲み干した。
 ドレもグラスの中を空にして、テーブルに手を掛けた。
 テーブルと椅子はもともと家の中から持っち出したものだった。
 「キル、家の中入ってていいぞ」
 「うん」
 キルは素直に頷いた後、老犬を連れて家の中に入っていった。
 さて。
 ドレは男がテーブルの反対側に手を掛けたこと確認してから持ち上げた。
 「……ドレイク」
 不意に、また昔の名前が呼ばれた。
 男の顔を見る。
 「……ここに留まるつもりは無いか?」
 テーブルを持ち上げたまま、そう告げられた。

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