冬 『春夏秋冬の物語』
冷たい空気と静寂がレンガ造りの街全体を包んでいる気がした。
冬だな、と思った。
不意に歩みを止めてぼうっと景色を眺めていた私の隣をオートワゴンが走り去っていった。
魔力混じりの排煙の独特の臭いが鼻をくすぐる。
私はその独特の臭いが好きでもないが、嫌いでもなかった。
しかし、その好きでも嫌いでもないという状態がどことなく落ち着かなくて、未だオートワゴンの自体のことは好きになれない。
体に溜まった空気を入れ替える様に深呼吸をした。
冬の冷たい空気が体と、それから心を刺激する。
そう、冬であった。
いつの間にか、と言う言葉を使ってしまうと私が随分と鈍感な人間に思えるかもしれない。
しかし、そうではない。
数週間前からラジオや新聞の中では「冬」という言葉を頻繁に使っていたし、私も頻繁に見聞きしていた。
当然生活をしていれば外に出たりするわけで急激な気温の低下を肌で感じていたし、なんなら外へ出ずとも家の中も気温が下がりとっくに暖炉も焚いている。
おそらく生活の中で「冬かぁ……」という言葉も何度も呟いているだろう。
ただ、そう、私が言いたいのは実感の話だ。
今まではただの外部情報であった冬が、なんとなく、今日、今、この時点において私の内部からふと湧き上がってきた。
何が私にそうさせたのかはわからない。
気温のせいか、近くに見えた広場に残った雪のせいか、随分と地平線の近くを浮かんで見える白日のせいか、はたまた先ほどのオートワゴンのせいか。
それは当の私でさえ分析できないような些細な刺激によってもたらされたのだろう。
はぁ、と白く濁る息を吐いて、立ち止まっていた足を再び動かし始めた。
冬。
私の、一番嫌いな季節。
ギルドに併設されている図書館は、隣のギルドの喧騒が嘘のようにいつでも静謐だ。
施設として充分な広さを備える図書館の中だが、平日の昼間ということもあってか仕事をこなす司書を含めても数人しか人が居ない。
図書館の中は暖房のおかげか外気の鋭く冷たい空気とは違って暖かい。
その暖かい空気に体を慣らすようにほっと息を吐いてから、図書館の中を進んでいく。
途中、カウンターの前で司書の女性と目が合った。
顔見知りの、いつもの女性だ。
歩きながら軽く会釈をすると向こうも返してくれた。
言葉は交わさない。
必要以上に言葉を交わすような仲であるわけではないからだ。
それから、本棚と本棚の間をするすると抜けていく。
今日は特に何か用事があってこの図書館に来たわけではなかった。
むしろ、何も用事が無いのでここへ来たのだ。
暇つぶし、というやつだ。
どんな本を読もうか、と思案する間も足は動いた。
いつもなら立ち止まる小説の棚や論文をまとめた本が置いてある棚も通り過ぎ、気が付けば施設の端まで来ていた。
そういえばここまで来ることは珍しい。
周囲の本棚を見てみてもほとんど見たことがないような本が並べられていた。
よく見てみると何やら大判の本が並べられている。
なんの本だろうか、一冊を手に取り、開いてみる。
中は綺麗に撮影されている風景写真に短い文章が添えられていた。
どうやら本は写真集のようで、次のページも、その次のページも同じ形式で構成されている。
なかなか珍しい本だ。
少なくとも私はそう思って、ページをめくった。
本の中の風景写真はこの国の風景ではなく、様々な国の風景が収められていた。
都合上各地を転々と渡り歩いてきた私には馴染みのある風景もあったが、そんな私でもまだ知らない土地の風景もあった。
そういう理由からか、気が付けば私はその本を食い入るように眺めていた。
風景写真の隣に添えられた文章は、おそらくこの写真を撮影した人物の書いたもので撮影した各地に関する些細な感想のようなものだった。
料理が美味しかっただとか、夏場なのに涼しかっただとか。
中には人が親切でなかったとか、途中でスリにあったなどの愚痴のような文章もあった。
そして、得てしてそう言った愚痴のようなネガティブな文章が添えられている風景写真の方が見事に映っているように思えた。
そういった著者の性質に思わずクスリと笑ってしまいながら、ページをめくる。
どれくらいそうしていただろうか。
不意に、思わず、手が止まってしまった。
とある小さな国のとある小さな辺境の村の風景。
何もない雪原にポツリと立つ、御伽話の勇者を模した像。
注意してみれば、写真を通してもその像が銅像や石膏像、木像のようなものではなく、様々な種類のガラクタを寄せ集めて作られた像だということが分かる。
私は、その像とその風景の事をよく知っている。
それは私の記憶の最も深く最も重要な場所に収められている風景と同じ風景の写真。
驚きも、喜びも、哀しみも、虚しさも。
一挙に体の内側の心の底の部分から沸き上がり、感情が暴れまわる。
対して身体は、そのあまりの感情の暴走の前に動きを完全に止めた。
呼吸も忘れ、周囲の音も風景も消え、私はその場から一歩たりとも動けないというような確信に似た錯覚を覚えた。
その状態で一体どれくらいの時間を過ごしたのか。
それすらわからない。
唐突に、ヒュと小さな音を立てて呼吸が戻り、思考が働きだし、体の自由が戻った。
私が最初に行ったのは、開いている手元の本を閉じる事だった。
それが、やっとだった。
現実に戻ってきて気が付いたのは、何やらカウンターの方が騒がしいということだった。
何事か、と耳を澄ませてみれば何やら女性二人の声が聴こえた。
「すみません、エストさんがこちらに来てませんか!?」
「え? えーと……?」
「緊急の用件がありまして探しているんです!! 確か、この時間帯は図書館に居ることが多いとおっしゃってたのですが!!」
ハァ、と思わずため息を吐いてしまった。
自分の名前が呼ばれていた。
女性の片方はカウンターにいた司書で、もう片方はギルドの受付をしている女性だろう。
わざわざギルドの方から私を探しに来るなんてよっぽどの事件でも起きたのか。
面倒だな、と思いながらも静謐を守るべき図書館で、私の名前を使ってこれ以上騒ぎになるのも御免だ。
手にしていた写真集を閉じて、棚に仕舞い、カウンターへと足を向けた。
まぁ、どんな事件だろうとすぐに片付くだろう。
一仕事を終えたギルドからの帰り道、刻は既に夕暮れだった。
茜色に染まり切った空には明るい星も見え始めていた。
もう十数分もすれば空は夜の黒に染められてしまうのだろう。
冬の道を一人帰路に着く。
妙に一人であることが気にかかるのは、昼間の写真のせいだろう。
意図してあの風景を思い出さないように空を見上げた。
白く染まる息が赤い空に溶けていく。
「お、姉ちゃん」
不意に声を掛けられ、振り返った。
「ん? ……あぁ、少年か」
その少年は私が現在住んでいるアパートメントの近所に住む子供で、私の姿を見つけるなり笑顔で声を掛けてきたようだ。
「今帰り?」
少年の問いにコクリと頷いてやると、少年も納得したようにコクリと頷いた。
それから少年は歩き出した。
私もそれに従うように少し遅れて歩き出す。
「しかし、日が短くなったよな」
「そうだな」
「早く暗くなるから俺も早めに帰らなきゃならないんだ」
「暗いと危ないから当然だろう。それに寒さもある」
「まー、そうかぁ」
納得したのか、していないのか少年は適当な相槌を打った。
ほんの一瞬、間が空く。
「姉ちゃんはさ、冬好きか?」
「……少年はどうだ?」
「うーん、早く帰らなきゃいけないから遊ぶ時間が短くなるのは嫌なんだけど、俺も妹も冬生まれだから、なんだか自分の季節が来たみたいにも思うんだよなぁ」
すぐ前を歩く少年は振り返らないままそう言った。
好きとも嫌いとも割り切れない、彼の年代にとっては何かモヤモヤと居心地の悪い感情でもあるのだろう。
それを子供らしい心の機微だと割り切れるほど、果たして私は大人になったのだろうか。
「姉ちゃんはどうだ?」
「そうだな……。……私は冬が嫌いだよ」
「ふーん。寒いから?」
「……大切な思い出と忘れえない苦い思い出が同じように浮かんでしまうから、かな?」
「?」
一人だった帰り道は二人になった。
家の暖かい灯りも見えてきた。
だから、大丈夫。
誰に言い聞かせるでもなく、心の中でそう呟いた。
冬の空気に茜色の空、吐く息は白く、心は揺らぐ。
大丈夫。
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