夜、通話
その日はなんだか眠れなかった。
いつもと変わらぬ時間に床に着いたものの目が妙に冴えてしまった。
仕方なしに起き上がってはみたものの何かをやろうという気にはなれず、街の灯りが仄かに差し込む暗い自室の椅子に座って、ただただぼうっと過ごしていた。
明日もいつも通り学校があるので早く眠りに着いた方がいいことはよく分かっているが、窓の外の暗い街並みを眺めないというのも勿体無いような気分だ。
音楽を聴くでも、本を読むでも、ゲームをするでもなく、無言のまま窓の外を眺める。
眠れない理由に思い当たるものは、当然あった。
つい先日、随分と冗長な紆余曲折を経て恋人ということになった幼馴染みとここ数日逢えていない。
今をもっていつもと変わらぬ日常の時間を漫然と暮らしている俺にはなんの実感も無いのだが、差し迫って世界は崩壊の危機にあるのだそうだ。
その危機を救う為に幼馴染みで恋人の琴占言海と幼馴染みで友人の宇野耕輔は世界の何処だかを巡っているのだそうだ。
命を懸けている二人の安否を心配している。
とは言っても、非日常と言うものと関わりの無い俺にはやはり実感はなく漠然とした不安と心配でしかなく、そこに部外者としての楽観が入り混じってしまう。
しかし、今日、こうして眠れない時間を過ごしているのはきっとそういった大層なものではなく、どちらかと云えば至極単純に言海の居ない日常に対する居心地の悪さのせいな気がしていた。
二人の境遇を思えば、なんとも矮小な自分の精神に思わず苦笑を浮かべてしまう。
が、日常の中でだけ生きる人間にとってはそんなものだ。
自嘲気味な思考に思わず溜め息を漏らした。
目を閉じて、思い浮かべてみる。
今は手の届かない想い人の姿。
最初は明確に思い浮かべられた幻は、やがて掠れて消えていき、目を開けた。
目に映るのは窓の外の景色だけだった。
こんなことをしていてもしょうがない。
いい加減にそろそろ眠るべきだろう。
窓から視線を外し、再び床に就こうとした時だった。
手元に置いていたスマートフォンが着信を告げた。
時計を見る。
既に時間は二十六時半を過ぎている。
画面の名前を確認し、息を吸ってから応答した。
「もしもし」
喉から出た声は、すっかり眠りについている街をけして起こさないような、密やかで優しいそんな声だった。
『……清景。今大丈夫か?』
言海の言葉が遅れたのは、きっと遠くの何処かにいるからなのだろう。
「あぁ、別に構わないが。どうした?」
『いや、何があったというわけではないのだが……。その、声が聴きたくなってな』
なんとも可愛らしい理由に思わず声を抑えて笑った。
俺も同じ事を考えていた事は言わなかった。
もしかしたら、スマートフォンの向こうの言海には気づかれているかもしれないけれど。
『ああ、そういえば時間は大丈夫だろうか? すっかり時差のことを考えていなかった。そっちは今何時だ?』
今更な問題だった。
きっと普段の言海なら真っ先に考えていたであろうが、いまはそんな余裕もないということなのだろう。
「今は夜の二時過ぎだ」
気が利く人間ならおそらく時間を有耶無耶に答えていたのだろう。
しかし、生憎と俺はそこまで気の利く方ではないし、何より俺と言海の関係は今さらそんなことを問題にするような関係ではない。
『む。もしかして起こしてしまっただろうか?』
「いや、気にしないでくれ。俺も眠れなかったんだ」
『ほお、珍しい』
「そう言うことだから、こうして話ができるのは俺としても助かるよ」
素直にそう伝えてやると言海は嬉しそうに、安心したように『そうか』と呟いた。
「……耕輔は元気か?」
言海とともにいるはずの幼馴染の名前を挙げた。
『あぁ、耕輔ならもうすでに寝ているよ。今日は特に仕事をしてもらったからな、疲れているのだろう。ぐっすりだ』
「そうか」
『私は周囲の警戒も兼ねてこうしてのんびりとしているのさ。哨戒、というやつだな』
物騒な単語が並ぶ割には随分とのんびりとした声音なのは言海の実力なのだろう。
不意に話題が途切れた。
俺と言海の間ではよくある、居心地の良い沈黙。
俺は窓の外の夜空を見上げた。
明るく輝く月と散りばめられた星。
もしかしたら、言海も同じように空を見上げているのかもしれない。
言海達が何処にいるのかは分からないが、世界の空は繋がっているなら、俺たちは同じ空を見上げている。
なんて、いかにもな言葉が思い浮かぶ。
が口には出さない。
それは流石に恥ずかしい。
だから代わりに。
「言海」
名前を呼んだ。
『ん?』
「待ってるからな」
『ふふふ。ああ、待っていてくれ』
それから他愛のない話を続けた。
この世界の危機など気にもしないように。
現実の話も幻想の話も、その境界が曖昧になるほど。
遠くの空が幽かに白んでいった。
街が仄かにきらめく。
俺達は通話を続ける。
大切な想いと大切な言葉を紡ぎながら。
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