ディアスク2 1

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 それは突然の出来事だった。

 その時、高度一万mを飛ぶ旅客飛行機は静寂に包まれていた。
 イギリス発日本行という何の変哲もない飛行行程の三分の二を特段のトラブルも無く平和に過ごしていた。
 あと三分の一程度この旅も終わるという安堵とこれまでの長旅の疲れからか、機長も添乗員もそして乗客も、その多くが休息や仮眠などで穏やかな時間を過ごしていた。
 「順調ですね、機長」
 「そうだな、なんのトラブルも無い」
 隣の副機長に不意に話しかけられた機長はそう答えて、それから安堵のため息を吐き、操縦桿を握りなおした。
 「だが、最後まで気を抜いてはいかんぞ」
 機長は目の前の雲一つ無い夜空を見渡して笑いながら注意を促した。
 「でも、流石にここまで順調な飛行だと、疲れるというか、飽きるというか……」
 副機長が欠伸を漏らしながら機長へと顔を向ける。
 「ハハハ。確かに、とてもつまらないな」
 機長は笑いながら冗談混じりに副機長に同意した。
 本当に順調だった。
 これまでの航路に悪天候や天気の急変は無く、今までの経験から言っても退屈なほどスムーズなフライトであった。
 「あ、でも安心して下さい」
 「ん?」
 副機長の言葉に顔を向ける。
 そこにあったのは楽しそうな笑顔。
 先程までの眠そうな顔とは打って変わった表情。
 「こんなつまらない飛行はそろそろ終わりですから」
 それは何かの引き金を引くような、そういう核心的な言葉だった。
 しかし機長にはその言葉の意味が理解できず、数瞬動きを止めた。
 「……? それはどういう――」
 『キャアアアア!!』
 副機長にその言葉の意味を尋ねようとした時だった。
 機内から爆発音とともに乗客の大きな悲鳴が上がったのは。

 ほとんどの乗客はその時仮眠を取っていた為、何が起こったのか理解なかった。
 大きな混乱が機内に伝染していく。
 そんな中、いつの間にか通路の真ん中に立っていた覆面の男が何かを掲げるように腕を上げた。
 二回目の、爆発するような音が響く。
 眠りから覚めた乗客達がその意味を理解する。
 爆発するような音の正体は銃の空砲。
 衆人の注目を集めた覆面の男はゆっくりと銃を下ろし、わざとらしく見える様に銃弾を込め、宣言するように声を上げた。
 「いまからこの機は我々の支配下に入って貰うッ!!」
 ハイジャック。
 単純過ぎる、がだからこそ想定外で、最悪。

 機内の情報をすぐに無線で聞いていた機長は、しかしギリギリ冷静を保てていた。
 今は、事態を深く考える暇は無い。
 だから、空港に緊急を知らせるスイッチに手を伸ばした。
 そのスイッチに触れた瞬間。
 しかし、その手が止まってしまう。
 理由は――
 「動かないで下さい」
 ――笑いながらこめかみに突き付けられたのは紛れもなく本物の銃だった。
 「あまり機内で銃は使いたく無いので」
 「……なぜ……?」
 それは最悪の裏切りを犯した同僚への純粋な疑問。
 副機長はその問いかけに変わらず笑顔を返した。
 「だから言ったでしょう? つまらない飛行は終わりだって」


 最初の銃声からものの数分で機内は恐怖により支配された。
 乗客は抵抗する暇もなく恐怖を植え付けられたため、機内は犯行グループが立てる物音以外の音がない状態になっていた。
 一般乗客のいる客室のフロアはカーテンなどで簡易に区切られいくつかのエリアに分かれている。
 その中の座席の機内最後部に位置するエリア。
 そのエリアを任され乗客の動きを見回っていた犯行グループの一人は、このハイジャックされたという尋常ならざる状況下で異様な光景を見付けた。
 (おいおい、この状況で居眠りかよ)
 他の乗客はもれなく銃を持つ自分に恐怖しているのにもかかわらず中央の座席列の端に座る青年は未だ眠りこけたままだった。
 それは絶対的優位に立っているはずの犯行グループの男の下らないプライドに傷をつけた。
 反射的に銃を青年に向けたが、思いとどまる。
 銃弾が機体の重要な部分にあたる可能性があるため、安易に銃を撃つわけにはいかない。
 犯行グループの男は眠っている青年の隣に座っていた若い女性に銃を向けなおした。
 女性は「ひっ」と小さく悲鳴を上げる。
 「そいつを起こせ!!」
 怒鳴るように女性に指示。
 女性は指示に対して抵抗することもなくゆっくりとした動きで隣の青年の体をゆすった。
 しかし、眠りこける青年はなかなか起きない。
 とんでもなく図太い神経だ。
 「早くしろ!!」
 犯行グループの男は一層苛立った声音で再度指示。
 女性はその声にビクッと反応した後、青年の体を今度は激しく揺らした。
 数秒かかってやっと反応があった。
 青年は「んんっ」と声を出して、目を覚ました。
 「……ふぁ。 あれ、もう着きましたか?」
 青年はのんきに欠伸交じりにセリフを吐きながら、自分を起こした女性に微笑みかけた。
 「あ、えっ……」
 女性が困惑しているのを知ってか知らずか、伸びをした青年の体は随分ガタイがよかった。
 「オイ、よく眠れたかよ……」
 低く苛立った声。
 伸びをする青年に銃が向けられる。
 青年はまだ寝ぼけているのか向けられた凶器に大した反応を示さず、目の前の男を一瞥してから隣の女性に質問した。
 「えーと……どういう状況ですか?」
 「ハイジャックだよ。訓練じゃねぇ、本物のな」
 女性の代わりに犯行グループの男が答えた。
 「あぁ、なるほど」
 男はその事実を聞いても焦らず、すんなりと納得したような声を上げた。
 「で、俺は何をするべきなんだ」
 男の目つきと声が先ほどまでの呑気さを払拭するように一変。
 「ッ!?」
 青年の態度に犯行グループの男は思わずたじろいだ。
 その様子を確認し、青年はゆっくり席から立ち上がる。
 「どうした?」
 立ち上がった青年に犯行グループの男は思わず後退る。
 ガタイが随分といいのは気付いていた。
 が、立ち上がった青年はけして背の低くない男が見上げるほどにデカかった。
 そして、何より異常なまでの威圧を男は感じていた。
 「何をするんだ?」
 「……あ、あっ……」
 青年から感じられる威圧感が男の焦燥感を加速させる。
 そして――
 「……うわぁー――!!」
 おもわず、拳銃の引き金に指をかけた。
 ゴッ――!!
 次の瞬間、機内に響いたのは乗客の誰もが予想していた男による甲高い銃の発砲音ではなく、鈍い音だった。
 音の正体は、あの状況で青年の拳が銃の引き金を引くより早く、完璧に男の顎を捉えた音。
 数瞬遅れてドサッと男は気を失って崩れた。
 青年はそれを確認してから乗客の方へ向き直った。
 「えーと、すみません。30分ぐらいでなんとかしてきますので、その間、騒がずに待っていてくれると助かります」
 そう告げて、青年は乗客の次の言葉を待たずに、乗員スペースを区切っているカーテンの向こうへ消えて行った。


 ――――その30分後、青年の宣言通り飛行機が近くの空港へ緊急着陸する旨が機内放送で流れた。
 更にその30分後には乗客全員が無事、地に足を着けた。


 「やぁ、キミのおかげで助かったよ。ありがとう」
 飛行機が緊急着陸してから、着陸した空港にあった大きな部屋に乗員乗客が詰め込まれた。
 乗員乗客はその部屋の中で警察から事情聴取などをされていた。
 事情聴取が始まってから30分近くが過ぎ、辺りも幾分か落ち着いたタイミングで飛行機の機長が事件解決に貢献した青年を見つけ、声を掛けた。
 「いえいえ、俺は大した事はしてませんよ」
 青年は苦笑しながら言葉を返した。
 「ハイジャック犯を全員制圧したのはキミじゃないか。ヒーローだよ」
 「そうですかね」
 また困ったように苦笑した。
 「お礼がしたいんだが……。こんな状況じゃあなぁ……」
 機長は申し訳なさそうな顔を青年に向けた。
 「いやいやいや、別にそんなこといいですよ」
 「しかし、私の気が収まらないんだ。 是非とも何かお礼をさせてくれ」
 一向に引き下がらない機長に対して青年は少し困ってから、何かを思い付いたのかをゆっくりと答えた。
 「あー……、じゃあ、出来るだけ早く日本行きの航空券が欲しいです」
 青年の言葉に機長は一瞬呆けてから、顔に笑みを浮かべた。
 「……何か、すぐに逢わなきゃいけない人でもいるのかね?」
 「あー、そうですね。 心配掛けたくない人が」
 「よし、わかった。 話して来てはみるが、あまり期待はしないでくれよ」
 そう告げて、機長は青年に背を向けてどこかに歩いていった。

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