炎堂明日葉の話

 「――それで?」
 スーツに身を包んだ、いかにも仕事のできそうな雰囲気を纏った女性が目の前のガラの悪い屈強な男二人組に向けて言った。
 「まだ続けるつもりかしら?」
 その言葉だけで、薄暗い路地裏の雰囲気はスーツの女性に支配されてしまった。
 まだ気温の低くない季節だというのに男たちは背筋に冷たいものを感じて、思わずジリッと後退ってしまった。
 視線と視線がぶつかり合うがもう男たちに勝ち目などなかった。
 敗走。
 男たちは女性から視線を逸らし、踵を返した。
 「……行くぞ」
 「へい」
 薄暗い路地裏から二人組の男たちだけが出て行った。
 残されたのはスーツ姿の女性と、その女性の後ろで身を隠すようにしていた目つきの悪い男子高校生だけだった。
 ガラの悪い連中の背中が見えなくなってから女性は呆れたようにため息を吐いて、それから男子高校生の方へ振り返った。
 「危なかったわね、桐間君」
 「あ、ありがとうございます! 炎堂さん!」
 目つきの悪い男子高校生――桐間周は縋りつくような勢いでスーツの女性――炎堂明日葉にお礼を告げた。

 炎堂明日葉。
 この国の『裏』の社会ではその名を知らぬ者のいない程の超名門のうちの一つ『炎堂』、その宗家の一人娘にして、刑事の女性。
 未だ二十代という若さでありながら『裏』の社会でその名を怖恐れぬ者のいない程の名声と実力を持つ、正真正銘本物のエリートである。
 そんな超優秀な女性が周の対面に座っていた。
 昼下がりの、幾分か人が疎らになったファミリーレストランで。
 店員が水とメニューを「ごゆっくりどうぞ」という言葉とともに机に置く。
 その背中を見送ってから周はコップに注がれていた水を一息に飲み干した。
 なんせまだまだ暑さの残っているこの時期に、一時間も追いかけっこをし続けていたのだから喉も乾く。
 そんな周とは対照的に明日葉は外の暑さを感じさせない涼しい顔でコップに一口だけ口を付けた。

今日、周は暇だった。
 水仙からの連絡はなかったし、学校は祝日で休み。
 久しぶりにまともな暇だった。
 だから、周はちょっと浮かれ気味に街へと繰り出した。
 確かにこういう時、桐間周という人間は目つきのせいでガラの悪い連中に絡まれる。
 でも、周だった以前の周ではない。
 様々な経験を得て度胸のようなものは随分とついたと自分でも思っている。
 だから、堂々と逃げればいいと思っていた。
 逃げ切れるとも思った。
 問題だったのは周が想定していた以上にとんでもなくヤバい連中に絡まれたということだった。
 もう少し具体的に言えば、反社会的な人たち。

 「ほんっとうにありがとうございました!」
 やっと一息ついた周が感謝を改めて口にした。
 もちろん頭も下げる。
 「別に気にしなくていいわ。貴方みたいな子を護るのも私の仕事だもの」
 相変わらずクールに、炎堂明日葉はそう言い切った。
 実際、刑事という職業の明日葉からすれば巻き込まれた一般人を助ける事は正しく仕事の一環であり、それが顔見知りの少年ともなれば尚更介入しない理由がなかった。
 桐間周と炎堂明日葉は知人というような関係性である。
 一回り近く年の違う二人がどのように出会ったかと言えば、例の『弾丸』の事件の過程の中のことだった。
 もし仮にあの事件の中で周が明日葉に出会っていなかったならば簡単に死んでいたかもしれない。
 そう考えられる程に周にとっては恩人であった。
 事件の後も何度か定期的に明日葉とは出会うことがあった。
 こうして事件に巻き込まれそうになったところを助けれられたこともあったし、特に何もなく会ったこともあった。
 明日葉側からすれば妙に事件に巻き込まれてしまう周を放って置けないということと、それからもう一つ。
 「月瀬さんと伊吹さんは元気かしら?」
 『裏』の社会の重要人物である月瀬水仙と伊吹湊と繋がりの強い周を通して二人の情報を知っておきたいという打算的な理由も少しはある。
 ただ明日葉と二人はどうも昔からの知り合いらしい、ということを周は知っている。
 実際、周が明日葉と知り合ったのは他でもなく水仙からの紹介だったのだし。
 それでも三人はどうも基本的に顔を合わせたり情報をやり取りしたりというのをしないようにしているようだった。
 「二人とも元気ですよ。部長は相変わらず忙しそうです」
 だから周は素直に答える。
 周の言葉に明日葉は安心したように息を吐いた。
 直接訊けばいいのにと周は思ってしまうが『裏』の社会の事情があるのだろう。
 大きく横たわる『伊吹』と『炎堂』という超名門の派閥同士の複雑で面倒臭いあれこれの事情を知っているわけではないが、なんとなくはわかってしまっている。
 個人同士がどうであろうと、集団の上に立てば上手くいかないこともあるのだろう。
 根っからの一般人である周には知っていてもよくわからない感覚の話だった。
 周がそんなことを考えていると明日葉がメニューを差し出してきた。
 「好きなものを注文して。驕るわ」
 「え? いや、流石に悪いですよ」
 助けてもらったばかりだ、そんな事までしてもらうわけにはいかない。
 断るが明日葉はメニューを差し出したままだった。
 視線が合う。
 絶対に折れない目をしていた。
 周は申し訳なくなりながらおずおずとメニューを受け取った。
 「高校生がそんなことを気にするべきではないわ」
 「いやぁ、でも流石に……」
 「そもそもこういう場面で年上の私に頼らない方が失礼ではないかしら?」
 「うっ……」
 それを言われてしまうともうそれ以上は何も言えなかった。
 周が大人しくメニューを選び出すのを見て明日葉は満足そうに微笑んだ。
 
 結局、メニューを選ぶのに十数分を要した。
 なんせ控えめな注文をしようとするたびに明日葉から止められるので大変だった。
 最終的に大人しく一番食べたかったメニューを頼むと明日葉は何も言わなかった。
 炎堂さんにしても、部長にしてもこのレベルの人たちは相手の心を読めるのが普通なのだろうか?
 それとも俺が特別わかりやすいのか?
 浮かぶ大きな疑問を抱えながら周は手持ち無沙汰になりながらメニューを待った。

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