弦が切れた
それは何気ない日常の一幕であった。
俺はいつも通り、バンドの連中といつものスタジオで練習をしていた。
ライブが今週末に迫っていることもあり、いつもよりは緊張感のあるスタジオ内。
真剣な表情のメンバー。
盛り上がる曲。
サビを越えて、ギターソロのフレーズに入ろうとした時だった。
ブッと鈍いノイズがアンプから吐き出された。
無視して次の音へと進もうとしたがそこで違和感を覚えた。
無い。
そこにあるはずの、音を出すのに絶対に必要になる弦が無い。
ギターに張った六本の弦の内一番細い一弦が無い。
手元を見る。
そこにあったのはプッつりと切れてヘッドとブリッジからビヨンと情けなく垂れる細い弦と何もない十二フレットを抑えた俺の指だった。
当然、音が出る訳もなくしばらくベースとドラムの音が続いたが、やがて異変に気付いて演奏が止まった。
二人がこちらを見た。
目が合う。
「……弦切れた」
正直にそういう他になかった。
「アンタが普段からきちんとメンテナンスしないからでしょ?」
ベースを肩から下げたままの南綾がため息を吐きながら嫌味のようにそう言って来た。
「メンテしてても切れる時は切れるだろ」
いつもの嫌味にいつものように返す。
ギターの一弦など切れる時は切れる物だ。
それを俺のせいにされては困る。
言い返して綾の方を見ると睨まれた。
「……なんだよ?」
「アンタのせいで練習が止まってるんだけど?」
「あ?」
「言い返す前に謝罪しなさい」
「するか、バカ」
「は?」
ピリとスタジオ内に一触即発の空気が流れる。
「まぁまぁ、二人とも焦るのはわかるけど落ち着きなよ」
こういう時、バンドが三人組であることが助かる。
ドラムの古幡光史はいつも俺と綾の喧嘩を止めてくれる。
「でも、ミツさん……」
「最近は毎日のように練習してるんだから楽器の不具合が出ちゃうのは仕方ないよ、綾ちゃん」
光史に宥められて南の視線も幾分か和らぎ、スタジオ内の雰囲気も先程よりは軽くなった気になった。
「そうだよ、綾。しょうがない事なんだよ」
便乗するように言ってやったが、また睨まれた
「アンタが言うな、アンタが!」
投げつけるような言葉を吐いて、綾は肩から下げていたベースをスタンドに立てかけて近くに置かれたパイプ椅子に座った。
どうやら休憩するらしい。
光史の方を見る。
光史はこちらを見て苦笑を浮かべていた。
「まぁ、このままじゃあどうしようもないし。いったん休憩しようか。陸人もその間に弦交換しなよ」
「おう」
軽く返事をして、俺も近くのスタンドにギターを立て掛けた。
それから、立て掛けたギターを見てみる。
つい一か月前に入手したばかりの高級な所謂ヴィンテージギター。
デカいボディーに渋いカラーリングなレアモデル。
最高、というほかにない。
「何してるんだ? 陸人」
黙ってギターを見つめていた俺に光史が訊ねてきた。
俺はギターを指差す。
「いや、最高だなと思って」
ニヤリと光史の方に笑いかける。
光史は苦笑で応える。
「いいから早く弦交換しなさいよ!」
三度、綾の怒号がスタジオに響いた。
「わかってるって。そうカッカしなさんな」
「……アンタ、ほんとにしゃべるたびにムカつくわね」
まったく、と呟きながら綾はスマートフォンをいじり出した。
流石にこれ以上怒らせるのも良くない。
俺は弦交換の準備を始める。
まずは鞄の中から道具の類を取り出す。
それにしても、綾の奴は最近、妙にカリカリしている。
おそらくライブが近いので切羽詰まっているのだろうが、それでこちらにあたらないで欲しいものだ。
そうでなければ俺がめちゃめちゃ最高のギターを買ったことに嫉妬しているのだ。
値段と二十四回払いローンの話をしたとき「馬鹿じゃないの?」と冷めた目で告げてきたが、結局羨ましかったのだろう。
なにせ最高のギターだからだ。
そんなことを考えながら道具を取り出していく、のだが肝心の弦が見当たらない。
「?」
おかしい、と思いながら今度はギターケースの中の小物入れを見てみる。
が、やはり見つからない。
「……」
これはアレだ。
完全に手持ちがない。
マズいことになった。
が、騒げばまた怒鳴られかねない。
「……弦が無ぇ」
「は?」
静かに呟いてみたのだが、綾は訊きつけたらしい。
こちらを睨んできた。
仕方なしに綾の方を見た。
「弦の手持ちがない」
「……はぁ」
流石に怒り疲れたのか綾は大きなため息を吐いた。
「じゃあ、早く買ってきなさいよ」
「受付で売ってたよね。確か」
呑気にそんな会話をする綾と光史の二人だが、問題はそこではないのだ。
「買う金も無い」
「は?」
「え?」
俺の財布には帰りの電車賃しか入ってない。
現に俺の今日の飲み物は家で汲んできた水道水だ。
何故なら、ギターの支払いに金が消えているからだ。
目を丸くして固まった二人にもう一度、力強く告げてやる。
「弦を買う金も無ェ!」
数秒後、大きなため息を吐いた二人に金を借りて、俺は何とか弦の代金を工面することに成功するのだった。
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