シャチ
ピピピピピ……――
枕元に置いてあるスマートフォンが軽快な音を立て、曖昧な微睡みの中から現実へと引っ張り上げてくる。
おそらく、多くの人間がそうであるようにいくら私と言えど決していつも通りの充分な睡眠とは言えない状態であっては目が覚めることを本能的に拒否してしまうものだ。
スマートフォンのアラームを無視してそのまま微睡みの中に戻ってしまおうと、もぞもぞと芋虫のような緩慢な動きで布団を被りなおそうとする。
が、私を現実に戻そうとするのは何もスマホだけではない。
トスっという何かそれなりの重量があるものが軽快に布団の上に上がった音がして、続けて目を瞑ったままの私の頬をグイっと何かが触った。
フニフニした感触と柔らかな毛を持った小さな手が頬に押し付けられた。
「にゃあ」
手の持ち主が私を起こすようにしっかりと、そして静かに鳴いた。
こうなってしまえば無視するわけにもいかないだろう。
ふぅ、と呆れとも嬉しさともつかない短い溜息を吐いて、目を開けた。
「おはよう、オルカ」
丁度目の前で姿勢よく佇んでいる白黒の猫の姿を視界に収めた。
名前を呼んで、布団の中から手を出して軽く撫でやるとオルカは気持ちよさそうに小さく鳴いた。
その様子をしばらく眺めてからカーテンの方へ目を向ける。
カーテンの隙間からは光が漏れだしており、既に世界には朝が訪れていることを告げていた。
はぁ、と今度は憂鬱なため息が漏れてしまう。
いつの間にか撫でる手も止まってしまい、オルカは不思議そうに顔を傾げていた。
「何でもないよ」と告げてもう一度オルカを撫で、意を決するようにベッドから起き上がる。
伸びと欠伸をして、カーテンを開ける。
眩しい朝日が出迎えてくれた。
「……朝ご飯にしようか」
いつの間にか足元にすり寄っていたオルカに話しかけた。
1/
冷蔵庫の中からバターとジャムを取り出す。
どちらも普通のスーパーで買ってきた普通のものだ。
それからよく冷えたペットボトルに入ったコーヒーも取り出した。
こちらはコーヒー店で買ったちょっといい物だ。
それを用意しておいたカップに注ぎ、ペットボトルを冷蔵庫の中に戻して扉を閉める。
バターとジャム、それからコーヒーの注がれたカップを持って今度は台所へ。
台所に無造作に置かれた袋の中から食パンを取り出す。
この食パンもつい2日前に近所のパン屋で一斤サイズを買っておいたものだ。
近所のパン屋は評判がいいのでよく行列を作っているのだが、偶然にも私が訪れたその日の夕方は空いていたので買っておいた。
ナイフを用意して一枚分のサイズを切り出し、残りを袋の中にしまう。
一斤あった食パンはもう半分も残っていない。
味が良かったのでまた買いに行きたいが普段は並んでいるので面倒だな、ということを考えながら食パンをトースターに入れ、ダイヤルを回す。
直後にジーという小さな音を立ててトースターは温まり始めた。
数秒トースターの様子を眺めていたが手持ち無沙汰になり、カップを手に取ってコーヒーを飲む。
コーヒーの香りと苦みと冷たさが寝起きの頭の覚醒を促してくれているようだった。
あぁ、そうだテレビでも点けようかと思ったところで足元にオルカがすり寄ってきた。
器用に私の足の間を行ったり来たりしながら体をこすりつけた後、こちらを見上げる。
「にゃあん」
起こしてやったんだからご飯をくれとでも言いたげだった。
その様子に思わず笑ってしまう。
「ごめんよ、オルカ」
食パンが焼けるまでにはまだ少し時間がある。
その間にオルカのご飯を用意してやろう。
私は待たせてしまった贖罪の気持ちを込めて台所の引き出しからオルカ用に買っておいた缶詰を取り出す。
パキャという軽快な音を立てて缶詰が開けば、オルカは既に床に置かれた自分の皿の前で行儀よく座っていて、長い尻尾を頻繁に左右に揺らしていた。
その様子を少しだけ眺めてから皿の上に缶の中身を出してやるとオルカは一心不乱に朝食にありつき始めた。
目の前のご飯を食べるオルカを邪魔しないように頭を撫でてやるがオルカは鬱陶しそうに小さく首を振った。
オルカの反応に苦笑しつつ、立ち上がる。
トースターはまだ食パンを加熱している最中であった。
コーヒーをもう一口飲んで一息つく。
どうにもオルカは私よりも同居人の方に良く懐いている。
私の方がいい餌を上げているハズなのだが。
オルカを拾ったのは三年程前のことだった。
丁度この家に越して来て同居人と共に生活を始め、その生活がやっと落ち着き始めた辺りの事だ。
オルカを拾ったのは私だった。
誰かが捨てたのか、はたまた野良の親猫からはぐれてしまったのかはわからないがまだ目もしっかりと開いていないような小さな白黒の子猫が近所の公園の草むらの中で今にも消え入りそうな声を上げていた。
その姿を見つけてしまった手前、見捨てるようなこともできず私は彼を拾うことにした。
その時に今のように猫を飼うということを覚悟していたわけではなかったのだが、当時私の周囲にはすぐに猫を引き取ってくれるような知り合いがおらず、拾った責任もあり同居人に説明をして猫を飼うしかないと思った。
私の説明に同居人は特に嫌がる素振りも見せず二つ返事で了承してくれたのだった。
私も同居人も動物がそれなりに好きではあったがそれまでの人生で動物を飼った経験はなく、まだ小さな子猫の世話について一々を検索などして情報を確かめながら世話を始めた。
食事や風呂など必要なことをこなそうとするのだが、なんせ二人とも慣れていないので四苦八苦したことが記憶に残っている。
病院にも行かなければ、と近くの動物病院を検索し二人と一匹で訪れた時に、未だ子猫に名前がないことに気付いた。
医者に「いいお名前つけてあげてくださいね」と言われた帰り道、二人で名前を考えた。
私も同居人も職業柄なにかの名称を考えることにはそれなりに自信があるつもりだったのだが、これがなかなか思い付かないもので困ったものだった。
思考が詰まり、どうしたものかと同居人の抱えたケージの中ですやすやと眠る子猫を眺めていて思い付いた。
それが『オルカ』という名前だった。
オルカはシャチのことだ。
なんのことは無い、猫の白黒模様で頭に浮かんだのがシャチだったというだけ。
動物に他の動物の名前を付けるという我ながら苦し紛れの名前だったのだが同居人にはなんとなくしっくり来たようで、それ以降猫は『オルカ』と呼ばれるようになった。
一旦は落ち着き始めていた新たな暮らしが、オルカの登場によって再びにわかに忙しくなり始めた。
チン、というトースターの上げた音で懐かしい記憶から戻された。
綺麗に焼けたトーストを皿に取り出し、テーブルへ運ぶ。
そして、現在。
すっかり同居人とオルカと共に暮らす生活に馴れたものだった。
平和で穏やかな生活。
なんとも充実した毎日。
トーストに口を付ける。
美味い。
いつもなら同居人が音楽でもかけているが残念ながら不在の今は流れていない。
なんとなく一人の時に音楽をかける気にはなれず贅沢な、そして少し寂しい静けさを楽しむようにゆっくりと朝食を摂る。
いつの間にか先に朝食を終えていたオルカが近寄ってきて、器用に私の膝の上に跳び乗った。
オルカの珍しい行動に若干驚きつつ、その背中を撫でてやると気持ちよさそうに欠伸をした。
「ふふ、オルカも寂しいのか?」
オルカは応えない。
つれない反応に苦笑を漏らしながらもう一度撫でた。
しばらくそうしていたが、ふと時計を見れば当然ながら時間は進んでいた。
「おっと、まずい」
オルカを撫でる手を止めて、トーストの残りを口に押し込み、コーヒーで流すようにして朝食を片付ける。
平和で穏やかな、充実した日々にも簡単にいかないものはあるもので、私には時間がない。
オルカを膝から逃がし、皿とコーヒーカップを持って立ち上がる。
原稿の締め切りが近く、のんびりしていられない。
足元のオルカは「にゃあ」と鳴いて、急に動かされたことに不満を訴えた。
「すまん、オルカ。締め切りが近いから我慢してくれ。今日の夜には清景も帰ってくるから」
苦し紛れの弁明をしてオルカの機嫌が治る訳もなく怪訝な表情で尻尾を揺らすだけ。
現実逃避気味に構い倒したい気持ちを抑え、皿を流しに片付け、コーヒーカップに新しいコーヒーを注いだ。
なんとか少しでも早く終わりますように。
自分のためか、オルカのためか、同居人――風島清景のためか。
たぶん自分のためだろうな。
物語の展開と登場人物の感情を頭の中でこねくり回しながら、書斎に向かった。
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