ライター、悪徳業者、速度

 ライターを着ける。
 ライターに灯った火を顔の前まで持ってくる。
 煙草を吸うわけではなく、ただ黙って火を見つめる。
 これはいわゆるルーティーンのようなもので、目の前で揺れる火が雑念を払ってくれる。
 幸い、今いるこの喫煙室には他に誰もいないのでこの行動を怪しむ者もいない。

 大事な時の前などで精神が不安定な時にこの行動を取るようになったのは、確か小学生の頃からだった。
 小学生や中学生の頃に、男なら誰しも花火や爆竹で悪さをするようになる時代があると思う。
 僕がライターを持つようになったのもそういった時期だった。
 ライターなんて言う危険物を何に使うわけでもなく、ただ持ち歩けているという事実に高揚を覚えるような時期。
 ライターが原因で何度か学校の先生や両親に怒られたこともあったが、それでも僕は持ち歩き続けていた。
 そんな折に、たまたまテレビにライターの火を使って相手に催眠術を掛ける、といういかにも胡散臭い催眠術師が出ているのを見た。
 家族と共に居間で、催眠術に掛かったという芸能人やいかにも胡散臭いその催眠術師を小馬鹿にしながらゲラゲラと笑った。
 その番組が終わった後、僕は部屋に戻って、この時も持ち歩いていたライターに火を灯してみた。
 暗い、明かりを付けていない部屋全体をボウっと灯した小さなライターの火が照らす。
 僕はその火をじっと見つめた。
 催眠術、なんて大層なものを使うつもりがあったわけではない。
 ただ、ライターに小さな火を見つめる、という行為に興味があった。
 暗がりの部屋でじっと火を見つめる。
 その時間は、段々と僕の中の雑念のようなものが空間に溶けていくような、集中力や感覚が研ぎ澄まされるような、そんな感覚を僕にもたらした。
 それまでの短い人生の中でも経験したことが無いような、その感覚を僕は忘れられなかった。
 それからだ。
 学校のテストや受験の面接、そういった僕にとって重大な物事を前にしたときに、隠れてこのようなルーティーンを行う様になったのは。
 
 そんな頭の中に湧いては消えていくアレコレとした雑念も目の前で揺れる小さな火が段々と小さくしてくれる。
 頭の中が空になり、冴えていく感覚を掴む。
 すう、っと鼻から息を吸って呼吸を一瞬止め、数十秒灯していたライターの火を消す。
 そして、口から息を吐く。

 「……行こう」

 小さく呟いた。
 ライターを着ているコートのポケットにしまい込んで、喫煙所を出た。


 街の路地にある小さな喫煙所を出るとすぐに冬の寒い風が僕を出迎えた。
 肩を縮めながら、コートの襟に隠れる様にして歩を速めた。
 世間的にも休日の今日はいつもより人通りが多いが肩をぶつけないよう丁寧に人混みを掻き分けていく。
 喫煙所で本来ならいらない時間を使ってしまった為、僕は多少急いでいた。
 
 そもそも僕が今何に向かっているのか、と言えば端的に言えば『バイト』に向かっていた。
 詳しく話そう。
 僕は現在大学一年生だ。
 半年と数か月前、僕は大学入学を期に田舎からこの街に出てきた。
 入学当初は周囲に友達も居なかったためそれなりの苦労もしたが、大学が夏休みに入るころにはサークル活動なんかを通して友達も出来て生活にも何とか慣れてきていた。
 ただ、未だに少し困ったことがあった。
 それが『バイト』である。
 僕は何故だかはじめたバイトが長続きしなかった。
 最初にバイトしたスーパーでは僕がレジを打とうとするたびにレジが故障したため1か月で解雇され、次に入った本屋では何故か僕のシフトの時だけ万引きが異様に増えたため3か月で解雇され、最近まで続けていた飲食店のバイトでは僕が料理を運んだ時だけ理不尽なクレームがやたらと多く、耐え切れなくなった僕はつい一か月前に自分から辞めることを店長に伝えた。
 それらの原因はよくわからない。
 自分でいう事ではないが僕はそれなりに真面目にやっているし、僕自身が店に迷惑をかけるようなこと、例えば接客の態度が悪いとか店内を見ていないとか、そういうことは無いハズなのだが、どうにもバイトは続かなかった。
 どうしたものか、この一か月僕はずっと悩んでいた。
 接客の仕事が良くないのだろうか、他の仕事ならどうだろうか。
 そんなことを周囲の友人達に頻りに相談していた。
 そんな折だった。
 いつも通りサークルの部室でダラダラと友人や先輩方と喋っているとふらり、と一人の先輩が部室にやってきた。
 その先輩はあまりサークル活動に熱心な先輩ではなく月に一度か二度程度しか部室で姿を見ない人で、正直に言うとそれほど僕は交流を持っていなかった先輩だった。
 僕はその先輩に軽く挨拶をして他のサークル員との会話に戻ろうと考えていたのだが、その時丁度僕と話していた先輩が件の先輩に声を掛けた。
 「コイツがさ、バイトに困ってんだって。なんか面白いヤツ紹介してやってよ」
 件の先輩は僕の隣に居た先輩と僕とを見比べた。
 一瞬、考えるような間を置いて件の先輩は僕の隣に座り、僕の悩みを聞いてくれることになった。
 会話してみると先輩は案外気さくな人だった。
 僕自身は交流をしてこなかったがサークル内ではそれなりに人望のある先輩であることもよくわかった。
 ただ、先輩は一つ気になる噂を持っている人で、僕はそれがずっと気に掛かっていた。
 先輩は普通じゃないバイトをいくつもしている、という噂。
 それがどういう意味で普通じゃない仕事なのか僕には判断できていなかった。
 普通じゃない、と言ってもまともなバイトだって無数にあるわけでおそらくはそういう事なのだろうけれど、普通じゃないと言われれば誰しもよからぬ想像を膨らませてしまうものだ。
 隣に座る先輩は僕の話に詰まらなそうな顔をすることもなく、丁寧に時々頷いたりしながら聞いてくれた。
 僕の一連のバイトの話を聞き終えた先輩は困ったように唸った後、数秒の間を置いてから僕の方へ少し距離を詰めて口を開いた。
 「もし……、もしも本当に困っていてバイトを紹介して欲しいなら、紹介は出来る」
 先輩はそう告げると、僕とメッセージアプリのアカウントを手早く済ませ、すぐにとあるURLを送ってくれた。
 「バイトする気があるなら、そのURLからメッセージを送れるから」
 説明はそれだけだった。
 先輩はそれ以上、何も言わないまま僕の隣から離れてサークル内の別のグループの方へ行ってしまった。
 
 先輩が碌な説明もしなかったこともあり僕は非常に悩むことになった。
 僕のバイト事情、真偽不明な先輩の噂、怪しげなURL。
 いったい何を信じるべきなのかもわからないまま時間が過ぎていく。
 その間も僕は新しいバイトを決められずにいた。
 結局、僕はつい三日前にその怪しげなURLに連絡を取ることにした。
 踏み出してみなければ何もわからない。
 問題がありそうであればすぐに逃げよう。
 そう決めてアクセスしたURLの先は拍子抜けするほどに簡易なメールフォームだった。
 バイトの希望の有無、氏名と生年月日、それから返信用のメールアドレスの入力欄。
 ただただそれだけしかなかった。
 バイトの内容や給与関係に関しての記述すら何も無く、逆に怪しさを増しているようだったが一歩踏み出してしまった以上、僕は躊躇いながらも入力を手早く済ませメールを
送った。
 一日と立たず返信が来た。
 返信されたメールは、ご連絡ありがとうございますという旨の丁寧な文章から始まり、多少特殊なバイトのため文章での内容説明が難しい事、そういう理由から実際に会う時間を取ってバイト内容を見ながら口頭での説明をしたいという事、その時に雇用形態や給与の説明も行い、これからバイトを実際に受けていただくかどうか判断してもらいたいという事、その後面接を行いたいという事、それから最後にその日時と集合場所が書いてあった。
 日時に問題が無ければ返信不要である事と万が一指定日時までの間にバイトを受ける気が無くなってしまったのであれば、その場合も返信は不要でメールは破棄して日時を無視すればいい事も合わせて記載されていた。
 終始丁寧な文章で書かれていることに幾ばくかの安心感を得て、僕は自室の壁に掛けたカレンダーを睨んだ。


 その指定された日時、というのが今日であったというわけである。
 怪しさは限りなく高かったが、踏み出してしまった事と得体が知れなさ過ぎて好奇心が強く刺激されてしまった事が手伝って、僕はこうして集合場所に赴くことにしたのだった。

 指定された集合場所を目指して街の中を進んでいく。
 生活には慣れてきたが、相変らず田舎には無かった高層ビルの群れにはなかなか慣れず、それらが立ち並ぶこの風景には妙な違和感のようなものを覚えてしまう。
 手に握ったスマートフォンをチラリと見る。
 地図アプリは先に集合場所の住所の入力しておいたので、それを確認する。
 集合場所は高層ビルの谷間にある小さな裏路地のようだった。
 近づくにつれて好奇心が不安に覆われていく感覚を味わう。
 そのたびに僕はライターの火を頭に浮かべて頭の中の雑念を振り払い、歩みを進めた。

 目的の集合場所に近づくと白いバンが見えた。
 メールにはそこで待っているという旨が書いていた。
 僕は意を決して白いバンに近づいていく。
 白いバンには背の高い男性が立ったままもたれ掛かっていた。
 おそらく彼が僕を待っていたのだろう。

 「あの……すみません」
 近づくと思った以上に背の高かった男性に勇気を振り絞って声を掛けた。
 僕の身長を考えれば男性は恐らく180センチ以上の身長で軽く見上げるほどだった。
 その上、サングラスにこの寒い中ジャケット一枚を着ているだけのなんとも怪しげな雰囲気だった。
 「ん? なんだい?」
 男性は思った以上に気さくな声で返してくれた。
 どう見てもアウトローな雰囲気を匂わせる男性に対して、僕はもう一度勇気を振り絞る。
 「あ、あの………ば、バイトの件で来たんですけど…………」
 「うん?」
 男性はもたれ掛かっていたバンから体を離して、サングラス越しに僕を眺めた。
 数瞬、気まずい沈黙が流れた。
 「あー、君か。待ってたよ」
 なんとも楽しそうな声で迎えてくれたが、急に不安になった。
 「あ、もしかして遅れてしまいましたか」
 慌てながら腕時計の時刻を確認する。
 「あー、いや全然遅れてないよ。俺が早めに来て君のこと待っていただけだから」
 男性は笑いながら答えてくれた。
 「あ、……良かったです」
 「まぁ、ほらこんな寒い中立ち話もなんだし、車で現場に移動しながら話そうか」
 男性に促されバンの中に乗り込んだ。

 
 男性曰く、車は現場に向かって走り出した。
 車内には二人。
 僕と僕を出迎えてくれた男性だけだった。
 男性は運転に集中しているのか仕事内容の説明などは無いまま車が進んでいく。
 車内ではラジオではなく何故か静かなクラシックが掛かっていた。
 曲名まではわからないそのクラシックが妙に良く聞こえる原因が車外の雑音がほとんど聞こえないことにあることに、僕はこのときは気づかなかった。
 それなりの速度で走る車の窓の外は高層ビルの群れを次々に映し出しては追い抜いていく。
 僕はこれからどうなるのだろうか。
 絶えず頭の中に浮かんで消えていく単語は『悪徳業者』。

 大きくなっていく不安。
 手持ち無沙汰な手が無意識のうちにコートのポケットの中を探っていた。

 右手の先がライターに触れた。

 僕は必死にそれを握りしめた。
 僕にとってはそれが御守りのようだった。

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