ライフインホワイト 2
サークル棟は相変わらず騒がしかった。
多くの学生がたむろしているロビーを抜け、階段を上がる。
階下の喧騒から少しだけ離れるが各部室からは賑やかな声が聴こえていた。
既に斜陽が指し始めるこの時間は、自分と同じように一日の講義を終えた学生も多くなってくる。
そうなれば必然的にサークルに訪れる者も増えるわけだ。
そんな騒がしい部室を尻目にサークル棟の階段をさらに上がり、そして奥へと進む。
俺の目的地は騒がしいサークル棟の中にあって静寂を保った場所だった。
歩を進め、目的の扉の前に付く。
そこはまるで切り取られた空間のように静寂があり、周囲の喧騒も隔てられているようであった。
扉にはプラスチック製のプレートに『文芸部』と表記されており、ドアの隙間からは光が仄かに漏れ出していた。
相変わらずこの扉の前は異様に静かで、この部室にもそれなりに馴染んだと思う今でも活動が行われているかどうかを扉の隙間から判断する以外にない。
今日はどうやら他のメンバーも来ていて活動しているようだった。
無駄足にならなかったことにホッと息を吐いて、ドアノブを握った。
ガチャリと音を立てて扉を開くと、半ば本と本棚に埋もれたような室内が目に入る。
その中央、部室としての体裁を保つように置かれた長机とパイプ椅子に腰かけていたのは二人ほどだった。
長机の奥側、部室の扉と対面するように座りPC画面と睨めっこしている比較的小柄な女子学生と長机の手前、扉のすぐ近くで黙々と本を読んでいる長い黒髪の女子学生の二人。
ドアの開く音に気付いた奥に座っている女性がこちらに一瞥くれた。
「……宇野か」
「あー……、もしかして邪魔でした?」
妙に不機嫌そうに呟いた女性――このサークルの主、現会長である金江 花(かなえ はな)の様子を見て、後ろ手で扉を閉めながら取り繕う様にそう言った。
金江会長のPCの周りには複数本のエナジードリンクの缶や栄養ドリンクの瓶が散らかっており、目元にも隈が浮かんでいた。
どうやら追い込まれている状況らしい。
「別にサークル員が来ようが来なかろうが、思い付けば書けるし思い付かなければ書けない」
微妙にかみ合わない返答をPCから目を離さないまま返された。
要するに俺がここに居ても居なくても関係がない、ということなのだろう。
であれば、わざわざ帰る理由もない。
俺は本が雑多に積まれた床を器用に進み、金江会長ともう一人の女子学生の間に置かれたパイプ椅子に腰掛けた。
ギシリ、とパイプ椅子が音を立てたが左右の二人は気にした風もなかった。
しばらく椅子にもたれ掛かりぼーっとしてみたが、無為に時間が過ぎていくだけで特に何が起こるはずもない。
――本でも読むか。
そう思った。
『文芸部』という名のサークルに所属しているが普段から読書をする性分ではなかった。
特に正しく読書家と言えるような幼馴染二人がいるので彼らと比べてしまうと間違ってもそのように名乗ることは出来ない、と思う。
しかし、この部室に来ると何故だか読書をしようという気分になるのだから不思議だった。
そうと決めてカバンの中を探る。
この部室に置いてある本は基本的にサークル員であれば持ち出し自由ということになっていて、普段から読みかけの本を借りている。
利用率で言えば大学の図書館よりも断然部室から借りることが多い。
しかし、カバンの中を探ってみても読みかけの小説は出てこなかった。
しまったことにどうやら自宅に忘れてきたらしい。
困ったな、と思ったのも一瞬だった。
何故なら周囲には本が散乱している、その中から新しく見繕えばいいだけ。
二人の邪魔にならないよう俺は静かに立ち上がった。
ギシとパイプ椅子が音を立てたが先ほども気にしていなかったので大丈夫だろうと思った。
金江会長を見る、気にした風もなくキーボードを打鍵していた。
もう一人の方を見る。
目が合った。
少々野暮ったい前髪に隠れた双眸は驚いていた。
俺が部室に来たことに今気づいた、とでも言わんばかりの表情だった。
俺は彼女のその表情に思わず苦笑いを返してしまった。
「えーと、お疲れ様です綾瀬さん」
「……お疲れ様です宇野さん」
彼女―綾瀬早紀(あやせさき)は申し訳なさそうに控えめに頭を下げて静かに、そして鈴の鳴るような綺麗な声で返してくれた。
綾瀬さんは俺と同期のサークル員であり、少々読書に没頭してしまうきらいのある女性である。
同学年であることもあって講義の合間などに構内で彼女の姿を見ることがそれなりにあるのだがほぼ必ず彼女は本を読んでおり、声を掛けても無視されることもよくある。
けして綾瀬さんも悪気があって無視しているわけではないのだが、やはりそのたびに精神的には少し傷ついてしまう。
そんな彼女なので俺が部室に来たことに気付いたのも本当に先ほどのことだったのだろう。
俺の存在に気付かなかったことに後ろめたさがあるのか綾瀬さんは申し訳なさげに持っていた本を閉じて、膝の上に置いた。
別に彼女の性分を知っている俺のことを気にする必要はないのだが。
まぁ、ここはそれを指摘するのも野暮だろうと思い声を掛けることにした。
「そういえば会長がなんであんな修羅場になってるか知らない?」
会長の邪魔にならないよう努めて小声を心掛ける。
訊ねたのは部室に来た時から疑問だった事。
なにも会長はいつでもああなわけではない。
会長があんな感じに追い詰められているのは文化祭の時期などの年数回の部誌発行のタイミングで追い込まれているときなどである。
だが、今は12月。
文化祭は二か月以上前に終わってしまっているのであそこまで追い込まれるような時期ではないはずなのだが。
金江会長の方を見る。
相変わらず時々頭を抱えながらPCと睨めっこをしていた。
「えぇと、会長は依頼されたモノの締め切りが近いみたいで……」
綾瀬さんは俺と同じように会長の様子を一瞥したあとに答えてくれた。
「依頼?誰から?」
確かに会長は時々文章を書く仕事を依頼されることがあるようだった。
大学内の他のサークルの勧誘文書の作成や学生新聞のコラムや連載、学内の教授の発行する様々な文書の作成の手伝い、それからWeb関係の仕事などその種類は実に様々だった。
しかし、それらの仕事で今のように追い詰められている会長を見ることは殆どなかった。
会長はあくまでバイトとしてお金に換えているだけで基本的には締め切りに余裕を持って仕事をしていた。
それがここまで追い詰められている、依頼主が気になるところだった。
「会長のご友人の漫画研究会の方みたいです」
「へー」
「泣きつかれて、修正と加筆を頼まれてしまったみたいです」
「なるほど」
よっぽどギリギリのスケジュールなのだろう。
「……会長、締め切りいつまでなんですか?」
会長の邪魔をするのは気が引けるが気になって直接訊ねてみた。
いくら追い詰められている会長でもこちらの質問に文句を言ってくることは無い、精々気に入らなければ無視される程度である。
なので、この質問も無視されるものだと思っていたのだが、会長はPCから顔を上げた。
顔を上げて、脇に置かれたエナジードリンクの缶を一息に煽り、飲み干した。
「今日中」
「……えぇと、いつ依頼されたんですか?」
「昨日。昨日泣きつかれて締め切りが今日一杯」
「……その頑張ってください」
「おう」
あまりの状況であったが残念ながら手伝えることは無い。
それをわかっているのか会長は短く返事をするだけでそれ以上は何も言わなかった。
文芸部に所属しているが俺は文章を書くことは特にやっていない。
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