ライフインホワイト 8
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「クソ……っ!!」
ポツポツと控えめに降り出した雨に打たれながら夜の街を駆ける。
宛てがあるわけではない。
思い付く場所をしらみつぶしに走り回るしかなかった。
少しづつ衣服が湿っていく気持ちの悪い感覚もあったが、強い焦燥と着実に溜まっていく疲労がそれを意識させなかった。
着信があった。
清景の家で晩飯を食べ終わり心の余裕が幾分か生まれていた。
綾瀬さんに関しては明日から一人で探そうと思っていた。
俺一人が動く分には、もし事件がなければ俺が恥をかくだけだし、仮に事件があったとしても巻き込まれるのは俺一人で済む。
危険に晒されることになっても俺一人なら何とかなる、はず。
いまや能力のないただの人間でしかない俺ではあるが、戦いの経験まで完全に消えてしまったわけではない。
そのような状況下でも一般人よりは動けるし、頭も働く。
だから今日はゆっくり体と心を休めて明日に備えよう、そう考えていた。
夕食を終え、清景の所有しているゲームを適当に触れて、それから清景の家を後にした。
まだ遅いとは言えない時間ではあったが清景が練習するというので自室に戻ることにした。
居てもいいとは言われたが邪魔しても悪い。
清景の部屋を出てほんの数メートル離れた自室を目指す。
風呂に入って早めに寝てしまおう。
そう考えていた。
扉の前で、ドアノブに手を掛けたところでポケットに入れたままのスマートフォンが震えていることに気付いた。
こんな時間になんだろうか。
今からバイト先の助っ人とかだったら嫌だな、と思いながらも手に取り画面を確認。
画面には通話である事と金江会長の名前が表示されていた。
改めて、こんな時間に何の用だろうかと頭を捻ってみるがあまり良い検討には至らない。
急いで通話を開始した。
「もしもし。こんな時間にどうしました?」
『宇野……!!』
その声は聞いたこともないほどに焦燥している声だった。
その声に思わず姿勢を正す。
どう考えても悪い知らせであろうことはすぐに理解できた。
『大変なことになってかもしれないんだ……!! どうしたらいいんだ……!!』
「ちょ、ちょっと待ってください! 何があったんですか、いったん落ち着きましょう!」
普段の会長の姿からは想像も出来ない動揺した様子に驚きながらもなんとか宥める様に話しかける。
状況が読めなかった。
それでも流石は会長で、声音の焦り様からいって普通の人間であればすぐには相手の言葉を聞ける状況ではないだろうに俺の言葉を聞いてそれを噛み砕き、深呼吸を数回してくれた。
もどかしい数瞬の間を外の冷たい空気の中待つ。
空の様子を眺めてみた。
妖しい黒く厚い雲が夜空を覆い、街の明かりを反射していた。
雨が降り出しそうだった。
『……あの後』
空の様子を窺っているうちにスマートフォンのスピーカーの向こうで会長がポツリと話し出した。
すぐに意識を戻し、会長の言葉に耳を傾ける。
『……宇野が部室を去った後、改めて考えてみて私も綾瀬さんの件が不安になったんだ』
会長はきっと心の奥では最初から心配していたのだと思う。
普段から頻繁にあっているサークルの仲間が突然来なくなったのだから当然だ。
それでもサークルを支える会長として、その不安が他のサークル員に伝わらないようにしていたのだろう。
俺を止めようと諭してくれたのもそういう理由があったのだと思う。
そう考えてみるとその感情を動かしてしまったことに罪悪感を覚えた。
『だから……、宇野には動くなと言ってしまったが、私は綾瀬さんのアパートに様子を見に行ってきたんだ……』
会長は申し訳なさそうに告白した。
俺を止めたという負い目があるからだろう。
しかし、俺は綾瀬さんの自宅の場所を知らないのでどちらにせよ様子を見に行くことはできなかった。
会長が綾瀬さんの自宅を知っていたのか、サークル員の名簿からわざわざ調べたのかはわからないが自分が知ることの出来なかったかもしれない情報が手に入るという状況はありがたかった。
「どうでした?」
『……わからなかったんだ』
「え?」
情報を得るため会長に返答を促したが望んでいた言葉は返ってこなかった。
おもわず俺が聞き返すと会長は静かに、ゆっくりと震える声を抑える様に言葉を続けた。
『綾瀬さんの住んでいるはずのアパートの周辺に怪しいいかにもな男たちが数人集まっていた。だから思わず逃げてきてしまった』
――状況は思っているよりも深刻で、逼迫しているのかもしれない
無意識に唾を飲み込んだ。
『宇野、なぁ、私はこれからどうしたらいいんだ……!?』
会長の悲痛な声だった。
親しくしている後輩が一週間姿を現さず、明らかに一般人ではない連中に追われているかもしれない状況。
自分の事でなくてもそれだけで精神的な負担は相当な物になるだろう。
そんな中で、会長はわざわざ俺に連絡くれた。
それは気紛れなのかもしれない。
それは直前に俺がその話を持ち掛けたために、俺の顔が思い浮かんだからなのかもしれない。
或いは、会長が俺の中に微かに残る『常人ではない何か』を感じ取ったからかもしれない。
金江会長には伝わらないように静かに深呼吸をした。
冷たい冬の外気が、生ぬるい空気に満たされていた肺とそれから脳を刺激する。
ここから先は、日常の世界じゃない。
これから再び――いや、主人公ではなくなってしまった宇野耕輔としては初めて、非日常の世界へと足を踏み入れる。
その覚悟を、静かに決めた。
「……金江会長」
努めて静かに呼びかけた。
張りぼてでもの虚像でもいい、自分の中に残った『主人公』をかき集める。
「大丈夫です。会長は落ち着いて、それから警察に連絡してください」
『宇野……』
「俺達みたいな普通の大学生じゃどうしようもない問題ですから、あとは自分の身を第一に考えて警察に任せましょう」
努めて明るい声音を心掛ける。
不安にさせてはいけない。
これ以上、踏み込ませてもいけない。
「そうだ。警察に連絡するならきっと状況を聞かれます。綾瀬さんの家について遠くからでもわかった事って何かありますか?」
『あぁ……。部屋の明かりは点いていなかったのと、遠くからだったからきちんと確認できたわけではないがおそらくポストに郵便物の類が刺さったままになっているのも見えた』
金江会長の話を聞きながら自室の扉を開けて、カバンを放り込んだ。
ドサっという音を聞きながら、電話越しに音が漏れないように扉と鍵を閉める。
スマートフォンは手に持っている、財布は上着に仕舞ったまま、鍵はポケットにねじ込んだ。
「なるほど。それはきっと警察にも説明しておいた方がいいでしょうね」
『そ、そうだな』
「それじゃあ一旦通話を切るんで、会長は落ち着いたら出来るだけ早く警察に連絡してください」
『……宇野はどうするんだ?』
恐らく不安になったのだろう。
最初にどうにかするべきだと言ったのは俺なのだから当然だ。
だからこそ返答に間は置かない。
滑らかに口を動かす。
「俺ですか? うーん、俺は直接かかわっているわけではないので家で大人しく寝てますよ。あ、それから他のサークル員にも出来るだけ伝えない方がいいでしょう。混乱になってしまうかもしれません」
「それじゃ」と改めて告げると通話が切れた。
これでおそらく会長は大丈夫だろう。
無茶をする様なタイプではない。
隣の部屋から微かにギターの音が聞こえる。
清景が練習をしているのだろう。
その音を背に俺は走り出した。
状況は一刻を争うかもしれない。
微かな情報と微かな記憶、それから頼りのない己の勘を信じて足を動かした。
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