「WE ARE LITTLE ZOMBIES」観ました

8/31のネット公開です。面目無い。

僕は正直オッサンなのだけど、「身内の葬式で泣けない人間」としてヒカリに結構しっかり感情移入してしまった。だけど悪い言い方をすれば、この話自体はちょっとナメてたんですね。結局は「生きづらさを感じてる子どもたちが自分なりの居場所を見出す話なんだろう」と。
思い出の品(?)を各々拾い集めて、バンドを結成して…そこまではそういう流れに見えた。自分たちを取り巻く社会を嫌ってたはずが、大人の思惑と世間の欲求に動かされるものになってしまったゾンビーズに同情的な気持ちにさえなった。思い上がりですよね。

だって彼らは、そんなものたやすく燃やしてしまったから。

大人の都合だけでゾンビーズが解散になった時、彼らは楽器を全部燃やした。兄貴のベースも、拾ってきたキーボードも、ちゃんと見えなかったけどたぶん中華鍋も。「終わったものはどうでもいい」と言わんばかりに。すげぇサラっとしてるように感じてしまったけど、多分これが生きづらさと戦うためのスタイルなんだ。悲しいとか辛いとかはやり過ごして投げ捨てて、さっさと次を探しに行く。だって周りは嫌なものばかりだから。いちいち向き合っていたら潰れてしまう。自分たちを下に見た連中を一時見返せるなら、大人の戦略に乗るのも何でもない。それって大人が好む精神論とは真逆で、だからこそ意味があるんだと思う。
でも四人の中でヒカリだけは何も燃やさなかった。バンドで歌っている時も手放さなかったゲームを遊び続けてる。だから僕はこいつに共感するのかなぁ、とちょっと思った。

最後にはヒカリもこのゲーム機を置いて歩き出してしまって、それはたぶん両親がもういないことを受け止めたひとつの形なんだろうと思うのですが、「結局この話って何なんだろう?」とも思ったんですね。それはたぶん、「無理に周りに合わせなくていい」ってことなんじゃないかと。

バス事故を起こし、心を病んで休業していた運転手は、赤の他人たちが過熱した結果自ら命を絶った。彼はヒカリに向けて「君のラスボスは自分じゃない」と言葉を残す。この言葉でヒカリは気持ちの持って行き先をひとつ失ってしまう。
この「ラスボス」はその後特に言及されないし最後まで明示されないけど、それでいい。これはそもそも「ラスボスを倒す物語」なんかじゃないのだ。
ヒカリがずっと遊んでいるゲームは、最初に自分が勇者じゃないと告げるとその後恋愛ゲームに変わる。つまりはそういうことなんだと思う。
ヒカリの顛末を恋愛と言うのは苦しいのでは?と思うかもだが、男は皆マザコンなのでこれもまぁつまりそういうことだ。
周りがそうしろって言ったって、わざわざ従う必要なんて無いのだ。王様に言われたからって魔王を倒す必要はない。両親が死んだからって無理に泣く必要はない。誰かを恨む必要もない。たぶんそういう空気とか、それが蔓延るこれからの人生とかが「ラスボス」なんだろう。けど、わざわざそんなものと戦わなくたっていい。
宥めすかして、やり過ごして、生き延びればいいんだ。
それは感情の死じゃない。使いどころを身に付けただけのことだ。
道程は決して褒められたものじゃない…と言うか終盤に至っては無賃乗車で列車止めて線路に飛び出したり、事故に見せかけてゴミ収集車襲撃したり犯罪オンパレードなんだけど、ヒカリにとっては両親が亡くなったことで変わったセカイとの折り合い方を見出すために必要な旅だったんだろうと思います。
映画としての主張って意味でも、何かと責任が求められる世の中で「逃げ場」みたいな側面を見せてくれるのは有り難いなぁと思いました。

ラストシーン、通夜の晩に戻ってくるのは解釈に悩むところですけど、「夢のような出来事だった」でいいのかなって思います。単なる妄想かもしれない、これから起こることなのかもしれない。だけど、「意味のある時間」だったことに間違いないのだから。


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