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引っ越し先は「認知症」の世界

「ローマの都から追放されても

ただ都の外で暮らすだけのことではないか」

これは、ヘレンケラーの言葉。


慣れ親しんだ生活から離れることになってしまっても

それはただ「場所」が変わっただけのことで

生きていくという事実は何も変わらない。ということだと

私は理解しているが

最近になって、この言葉の意味を深く深くかみしめるようになった。


母が「認知症の世界」に引っ越していった。

その話を今回はしたいと思う。


母が倒れ入院したという連絡がきたのは

昨年の11月の終わりのことだった。

直接的な原因は、糖尿病の既往が引き起こした低血糖。

例の流行り病でテレビを見すぎて抑うつとなり

それがセルフネグレクトを引き起こし

普段の生活に必要な水分や食事の栄養管理ができなくなり

結果として、低血糖を引き起こし倒れてしまったようだ。


父は後期高齢者だが未だに働いているため日中は母一人。

前々から、少々頓珍漢な言動が増えていたり

テレビや携帯電話に対する依存が強くなっていたという話は聞いていた。

ワイドショーで話されていた流行り病についての内容をメモにびっしり残していたらしい。

なんというクセの強さだろうか。


元々、昔からクセの強い母である。

夫婦間のストレスからアル中になり

私に対しては暴言や暴力、過干渉。反対に妹のことは「愛玩子」として

可愛がっていた。

その結果私は地元を遠く離れ

逆に妹は地元に残り、実家の隣で暮らしている。

しかし最近はその妹に対しても暴言を吐いたり

更にはヘルパーさんや看護師さんと間違えたり

妹の子どものこともわかったり、わからなかったりで

「もう1日1回様子を見に行くだけで精一杯」なんだそうだ。


母の悪魔のような部分や、早口でまくしたてる暴言の恐ろしさは

家族のだれよりも、私が一番よく知っている。

そのせいで勝手に失踪したり、10年も疎遠を貫いた私に

誰を責める資格もない。

ただ

好きなように感情を表現して、思うままに行動して

周りを振り回す様子を聞いて

「仮面が外れて良かったね」と思ってしまう

無責任な私がいた。


母という人の過去について少し説明しようと思う。


母は、赤ちゃんの頃に父親を亡くし

三歳の頃に実の母親によって児童養護施設の前に置き去りにされ

その後親戚の家をたらいまわし状態にされながら育った。

中学卒業後、集団就職という形で県外に就職したものの

水が合わず帰郷。

念願かなって実母に会えたものの

母を置き去りにしたすぐ後に再婚していて

「私の幸せを壊さないで」と、封筒に入った10万円を渡され

傷心しているときに、11歳年上の父に出会って結婚した。

当時17歳。

結婚と同時に姑と小姑と同居となり

子どもがなかなかできないと責められ、流産すると責められ

やっと生まれた私は女の子。

「役立たず」と罵られながらも、帰るところのない母は

耐えるしかなかったのだという。

頼みの綱だった父は「若気の至り」で仕事に遊びに忙しく

家庭を全く顧みなかったので

うちは旅行にも行ったこともないし

なにしろ常に貧乏だった。


母は確かに「毒母」ではあるが

毒を吐くことでギリギリ保っていたのだということに気付いたのは

私自身が結婚して子を持ってからだった。


もし自分が母の立場だったら…

想像するだけで恐ろしくなるし

旦那に対する恨みつらみをどうやって晴らしてやろうかということを

墓の中まで行っても考え続けるだろうと思う。


実際に母もそうだったのだけれど

認知症になってからは少し様子が違うような気がしていた。


大みそかの日、入院中なのに父の携帯に電話をかけて

「明けましておめでとう。今年もよろしくね」と言ってみたり

更にその日の夜に再び電話をかけてきて

「テレビ、何見てる?私と同じ?あら、気が合うねぇ」とケタケタ笑っていたり。

入院前にも

父の仕事が休みなことを忘れて弁当を作ろうとしたり

ガスの元栓が締まっていることを忘れて

火のつかないコンロで父の大好物の卵焼きを焼こうとしたり

運転できないことを忘れて

「パパのおやつを買いに行く」と出かけようとしたり。


頓珍漢な行動の根っこに、いつも父がいる。

そして、笑顔を求めている。


行動に色んな間違いはあるものの

父は父で「愛嬌みたいなもんだ」と笑っている。

たまに可愛らしく見えることがあるらしい。


様々なトラブルでぶつかり合い、傷つけあってきた二人だが

結婚47年目にして、初めてともいえる

「二人きりの穏やかな時間」が訪れているのは

紛れもない事実。


「穏やかに暮らしたい」と言っていた母の

願いが一つ叶ったのだと思った。


私や妹のことは、半分忘れているのか

連絡もないし放置されているが

夫婦二人の穏やかな暮らしに幸せを感じているのなら

わざわざ割り込んでいく必要もないだろう。

特に私と母とは

何度も罵り合ったり、つかみ合いの喧嘩もしてきたので

そんなことも、いっそのことキレイに忘れてくれればいいとさえ思っている。


実際に、介護士としてグループホームや特養で働いているときに

我が子の存在を忘れてしまっている利用者さんは結構いたのだ。


妹にその話をすると

「まぁ、元気で穏やかに生きててくれりゃ、それでもいいかもね」とため息交じりに笑っている。

そう。穏やかに生きててくれりゃあね。

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人は、たまたま大きな勘違いをする。

「助けが必要な人を、自分が導いてあげなくては」と。

子どもに対して

社会的に「弱者」といわれる方々に対して。


ただ、その導きは「ローマから追放されないため」のもの。

ようは「一般社会・一般常識から外れないため」のもの。


本当は、ローマの外の方が

その人にとっては素晴らしい世界かもしれないのに

飛び出していった人に対して「可哀想」とか

「異端だ」とレッテルを貼る。


北海道に、開拓移民として入植した祖母が言っていた。

耕しても耕しても石ころばかりだし、畑なんてできるものかと

子ども心にそう思ったけれど

そんなこと思っていても生きていけないから

一生懸命手伝ったのだそうだ。

何もないところから、作っていったんだ。

そうしたら、ほら。今は自分が食うのに困らないくらいの

畑になったべさ。と。


母の飛び込んだ「認知症の世界」も

もしかしたら、そんなところかもしれない。

これからどうなるのかは

やってみないとわからないのだ。


荒れ地のままにするのか

人が暮らせるところにするのかは

自分たちの手にかかっている。


たとえ教科書通りじゃなくても

「ここが私たちの都です」と

いつか胸を張れるようになるだろうか。


まだまだ、旅は始まったばかり。



















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