"the sky above the port was the color of television tuned to a dead channel"

"the sky above the port was the color of television tuned to a dead channel"

これは『ニューロマンサー』の冒頭の一文で、いろんな人はこれは非常に名分で実に印象深いといっているのだが、僕はどうもいまいちピンとこない。そもそもデッドチャンネルのテレビの色とは何を想定しているのか。

日本だと普通にザーという灰色の画面なのだろうけれども(今ってどうなんだろう? 僕はもう20年ぐらいろくにテレビをみてない)ギブスンが想定していたのは? と今日『ニューロマンサー』を読み返して考えていたんだけど、どうも灰色で良いらしい。Cyberpunkについての話をする英語圏掲示板のredditにまさにこの問題について話しているスレッドが存在する。

それはかつて灰色であり、それ以降の世代はブルーだと。だから今の若い世代はこの文章を読んだ時に青色を想像するだろうとしている。ギブスンによれば、静的なものではなく、それは放送が開始する前、チューブが暖まっていた時の灰色だ、ということになるようだが、本人の発言が矛盾していて正確なところはよくわからないらしい。もっとも、灰色なのは確かなようだ。

↑は1961年頃の、ギブスンが子供の頃に観ていたであろうテレビ。ついでに調べていたら、2004年版の『Neuromancer』にはギブスン自身によってこの場面についての見解が述べられていた。原文は下記のリンクから読める

1984年当時の私の読者の多くは,『Neuromancer』の冒頭のセリフを私が意図したようには体験できなかっただろうと気づくまでには,少なくとも10年はかかった.実はこの最初のイメージは、子供の頃のモノクロのビデオ・スタティックを念頭に置いていて、ナトリウムのように青白くて、ほとんど痛みを伴うようなものだった。

時代を経てこういう文章を読む現代の読者は、こうした部分を読むのに「想像力の追加コスト」を支払わされることになる。僕はまだ死んだチャンネルと言われればすぐわかるが、もう今の子は死んだチャンネルってなんだろう、っていうところからわからないだろう。当然色もわからない。それはいったいなんなのだろう、と考えることになるはずで、当然当時読むのと今読むのとでは大きくその体験は異なってくる。

上の序文のギブスンも同じことを語っている。10代だった60年代、SFにとって非常に豊穣だった40年代からのSFを大量に読んで、技術的に時代遅れになってしまった小説を読むためにそうした努力が必要だった。で、自分はそういうフィクションの描写を、物語が提供するかもしれない他の価値と引き換えに、切り捨てていたけど、同じように今の読者は今日『ニューロマンサー』をそうやってカットしているに違いない──テレビの色と同じように。

小さくてどこにでも存在する携帯電話が『ニューロマンサー』のどこにも存在しないという、不作為の罪もあったからだ。だがしかし、同時にギブスンが『ニューロマンサー』の中で最も好きなシーンの一つは、並んでいる公衆電話が連続して鳴るシーンであり、これは「携帯電話」が存在していたら存在しなかった。古い物語を読むのは確かに現代人からすると大変なところもあるが、しかしそれが与えてくれる他の価値もまた存在するのだろう。

序文の最後の文章がまた良くて、少し翻訳すると、

わたしのリアルな同情は、どこかのソファで丸くなっている聡明な13歳の子供が、本を20ページ読み進めて、なぜ千葉市では携帯電話が禁止されているんだろうという謎の核心に迫ろうと必死になっていることにある。
頑張れ、友よ。
余計におかしくなるだけだ。

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