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1月22日 万延遣米使節団が横浜を出発(万延元、1860年)

たった一本の小さなネジだったが、小栗忠順はどんな想いを
込めてアメリカから持ち帰ったのか?

江戸幕府の77名が乗り込んだ万延遣米使節団が、米軍艦ポーハタン号で横浜を出港した。めざすはアメリカ合衆国。2年前に締結された日米通商条約の批准書をワシントンまで届けるためだ。本当なら、初代駐日公使ハリスや井上清直とともに条約をまとめあげた外国奉行=岩瀬忠震が率いるべき団だったが、安政の大獄で蟄居の身を強いられていた。

外国人と接したことのない正使の新見らに代わってアメリカでの外交行事を切り回し、代表と勘違いされるほどの大活躍をしたのが小栗忠順。難題とされた日米通貨レート見直し交渉では、臆せずアメリカと渡り合った知性と品格を、現地紙が驚嘆を込めて称賛した。

ワシントンの造船所を間近で見た小栗は、日本とは比べ物にならない技術、設備の凄さに圧倒されるともに、その差が一個の小さなネジに凝縮されていることに気が付いたのか、記念として持ち帰っている。

ワシントン海軍造船所では、船舶はもちろん、蒸気機関そのものや大砲が作られていた。船に使う帆やロープ、さらには家庭用の鍋、釜、スプーンに至るあらゆるものが製造されていた。こんな総合工場を日本にも作りたい。それが長年の夢のはじまりだった。

『小栗上野介の選択』佐藤巌太郎

帰国後5年経った慶応元年(1865年)11月に、小栗は横須賀製鉄所(後に戦艦陸奥や空母飛龍、信濃が建造された横須賀海軍工廠)の建設開始にこぎつけた。 もちろん幕府内のさまざまな反対論を押しのけてのことである。製鉄所では、造船のほか 小銃・大砲・弾薬等の兵器・装備品の国産化も進められた。首長にはフランスのレオンス・ヴェルニーを任命し、その指導で職務分掌・雇用規則・残業手当・社内教育・洋式簿記・月給制など、経営学や人事労務管理システムが初めて日本に導入された。またフランス語学校・横浜仏蘭西語伝習所ではフランス人講師を招いて本格的な授業が行われ、多くの人材が育てられた。こうした近代的システムを備えた造船所が、明治維新の2年前にはすでに稼働していたわけだ。

文久2年(1862)将軍臨席の幕閣会議で、小栗が説く自力造船による海洋国に対し、「イギリス海軍のようになるには500年かかる。海洋技術を学ばせ、人材育成を優先すべき」との軍艦奉行並の勝海舟の意見が採用された。

同上

さらにそれから半世紀あまりした明治45年(1912年)、海軍大将=東郷平八郎が自宅に小栗の遺族を招き「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と礼を述べ、「仁義禮智信」としたためた書を子息に贈っている。

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