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ダンスフロア

結局とか、要するにとか考える上で自分から範囲を決めてその容量を超えそうになったら満足してすぐ忘れてつまらないものに走るのはもうわりとうんざりしていて、

考えることは際限がなくて誰にでもできてお金もかからないし、減るのは自分の時間くらいで、でも自分の時間なんて自分のために使うのが一番いいのかはわからないけど少なくとも最近感じる雰囲気から察するに自分の時間を自分のために使えている、使おうとしているようにはあんまり感じられないからいいのかも

よくないくせになっているのかもしれないけれど、やっぱり考えることは尽きないし終わりのないように思える全ての事柄にはきちんと終わりがあってその空間の中は無制限に広がっている、ように感じられるのはきっと考えることの際限が本来ないことと重なっているのかもしれない

勘違いしちゃいけないのが考えることと思い込むことは全く違うことで、昔書いた事と微妙に重なるけれど、精神と肉体の二分論でいうと肉体の活動が疎かになるとその分精神の活動が活発になるという質量保存みたいなことが昔あって、でも重要なのがただ活発になるというだけで単にその内実が果たして良かったのかというと甚だ疑問なわけで、それはきっと思い込みの要素が強かったというわけで、だから考えるためには考えるための要素と、その支柱となる模倣となる何かがなければいけないきがする
私は親や周りの人らの模倣によって成り立っていて、それは本の中の出会ったことのない名のある人やもう死んだ人もそうで、彼らがいなければ今の私という輪郭は形作られていない訳で、綺麗な枠が無いと可愛い形のクッキーが焼けないように自分の思いたいようにするには鋳型が必要なのであって、そうでないと単なる質量だけの甘い小麦の匂いがする硬いおやつになるわけで、それはそれで

最近はエネルギーの突出のような毎日で
時間に耐えられなくなってたばこの方にもたれ掛かるようなそんな毎日で
自分の質量がまばらであちこちに隙間があって溶けてしまいそうで不安定で余計な模倣をすぐにだめになってしまう常温のパンケーキでその場しのぎの毎日のようで

音量を上げてつまらない顔をしながら飲むひどく甘い缶コーヒーと消えない炎はこのまま
まるで夜に生きるドラキュラのようで
それもありかもしれなくて
そんなに慌てても無駄できっとお手つきで

便利な世の中と引き換えに音楽が鳴り止まないパーティの様な毎日を生きなければいけないけれど
好きな音楽が流れない交わるいろんな感情のなかで、
最悪な気分にピリオドをつけて買ったばかりの靴を汚して優しいモーニングを食べよう

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