2022.03.26. あかり&ホメオタス-スピノザと仏教


この集まりのきっかけとなったDMのやりとり

ほめ: あかりさん、スピノザ知ってますか?エイリッヒフロムの「愛するということ」知ってますか?仏教ぽいと思ったんですが…

あかり: 
「エチカ」、「愛するということ」、読みなおしました。
確かに仏教の法、唯識論と近い。
ユダヤ教、キリスト教との比較で語られてますが神を定義したのは時代背景からの必要性だったのかと。
以前の意識の発見のことを思い出しました。
フロムも言ってることは布施、六波羅蜜ですね。
大きな違いとしては肉体的な作為を伴う所謂修行、阿頼耶識を想定されてない(思い至らなかった)ところか。

ほめ: 阿頼耶識についておしえてください

あかり: 
スピノザも全く触れてない訳ではないのですが。
自由意志は必然であり全ては原因と結果に依っているのでコントロール出来ないとのことです(末那識)。
この結果が積み重なって溜まっていくのが阿頼耶識。三世の因果が蓄積され、人の行動を規定している。因果の因のパートを鍛えることでより良い判断に結び付ける事が可能、その為に修行と言うプロセス。

ほめ: 突然ですが、今日私休みなので、話せませんか?
お話聴かせてください。

ということで、集まりました。
私は、さらっと読んだだけ。あかりさんは、いきなり呼ばれただけ。
そういうことなんで、てきとーな発言してます。


以下の文章は、音源を聴きながらホメオタスがまとめたものです。
なので、会話の内容と私の解釈には、ずれがあるかもしれません。
《ホメメモ》は、ホメオタスが本を読みながらまとめたメモです。
下記の本の文章を引用してまとめています。




2022.03.26. あかり&ホメオタス-スピノザと仏教-⓵

⓵ 末那識

「エチカ」の中の考え方と仏教の考え方の似ているところ

ほめ: 「はじめてのスピノザ 自由へのエチカ」を読んで、そのなかに書かれている考え方が、仏教に似ていると思った

あかり: 「エチカ」の中に書かれていたのは、仏教の「法」を「神」という言葉に置き換えたと思うくらいだった


スピノザの神と、仏教の法

ほめ: スピノザの神は宇宙みたいな感じ

あかり:
● スピノザの神の概念は仏教の「法」のようなもの
● 法面(のりめん:堤防などの傾斜のようなところ)にものを置いたら下に落ちるような自然な流れを「法」という
● 「法」をこの世の普遍的なものととらえて、それをスピノザは神ととらえているのではないか

《ホメメモ》汎神論と神即自然

【汎神論】
神は無限であり、すべては神の中にある
=「汎神論(はんしんろん)」
= スピノザ哲学の根本部分にある考え方

【神即自然】
すべてが神の中
=神は宇宙のような存在
=神と自然を同一視
=「神即自然」

「神即自然」
=外部を持たない
=他のものから影響受けない
=自分の中の法則だけで動いている
=自然の中の万物は自然の法則に従う
=超自然的な軌跡は存在しない
=スピノザの神即自然は、自然科学的で、宇宙のような存在を神と呼ぶ 意志をもち人間に裁きを下す神というイメージなのでスピノザのこの考え方は、無神論といわれた。教会勢力が強かった時代には受け入れがたかった考え方

あかり:
● 物理法則みたいなものをスピノザは神といっている
● 「エチカ」で言いたかったのは心の中の作用だったかもしれないが、神と名付けてしまったことで、ややこしいことになってしまった
● それはユダヤ教やキリスト教の神の概念とは異なり、どちらかというと仏教の法の概念に似ている

《ホメメモ》本質が力

【コナトゥス】
=ある傾向を持った力
=自分の存在を維持しようとする力
=個体を今ある状態に維持しようとして働く力のこと
=医学や生理学で言う恒常性(ホメオスタシス)の原理に近い


組み合わせとしての善悪

《ホメメモ》5)組み合わせとしての善悪

一般的概念は偏見
それは何度も見たものに基づいて作られた概念に過ぎないから

スピノザの考え方
【すべての個体はそれぞれに完全である】
=それぞれの個体はただ一つの個体として存在しているに過ぎない
=存在している個体はそれぞれがそれ自体の完全性を備えている。

心身の障害もマジョリティの視点から形成された一般的概念に基づいて判断されているに過ぎない

【それ自体として、善いものも悪いものもない】
自然界に完全・不完全の区別が存在しない
=事物は「それ自体で観られる限り」良いとか悪いとかは言えない

【善悪は物事の組み合わせで決まる】
● 完全・不完全の考え方=一般的概念との比較によってもたらされる
● 善悪の考え方=組み合わせで決まる
うまく組みあわさるものと組み合わさらないものが存在する。=それが善悪の起源
Ex. 鼻水の薬

【善は活動能力を高める】
スピノザは完全・不完全、善・悪の言葉を再定義して使い続けることを提案する
☆ スピノザが考えようとしているのは、いかに生きるべきかという問い この倫理学問いに答えるためには、望ましい生き方と、望ましくない生き方を区別することが必要。
もし完全・不完全も善悪もないというだけなら、どんな生き方をしても変わりないということになってしまう。

私にとって善いもの=私とうまく組み合わさって、私の「活動能力を増大」させるもの。
=より小なる完全性からより大なる完全性へと移る

【倫理学は個別の実験を求める】
● 道徳 =既存の超越的な価値を個々人に強制し、個々人の差は問題にしない。
● スピノザ的倫理 =組み合わせなので個々人の差を考慮する。
=個別具体的な組み合わせを考える
→何と何がうまく組みあうかはあらかじめ分からない
→スピノザの倫理学は実験することを求める。
→どれとどれがうまく組み合うかを試してみる 道徳もそのような実験に基づいていたはずだが、それが忘れられて、結果だけが残っている。

☆ 道徳が個々人の差異や状況を考慮に入れずに強制されるなら、注意が必要
そのもの自体の善も悪もない。 善悪は組み合わせで生まれてくる

あかり: これは仏教でいう関係性

ほめ: 鼻炎薬は鼻水に困っているとよく働く、 困ってない人には悪く働く

あかり: 力は法により、本来分散するようなものを1か所にまとめて置くこと

ほめ:
● 力だから変化することがある
● 組み合わせは実験することが必要というところ、実践あるのみという感じが「仏教は実践である」という言葉を思い出させる
● 組みあわせは善悪を測るところで出てくる

あかり: 相対的ってことよね。絶対的真理はない。

ほめ: ここまで善悪を定義しておいて、その上で、この場でどうやって生きていくか、あえて決めていこうよっってスピノザの「エチカ」(倫理)は言っている


ねたみについて

《ホメメモ》6)善悪と感情
【喜びと悲しみ】
スピノザの善悪の考え方は感情論と直結する
感情を喜びと悲しみの2つに分けている
より大きな完全性へと移る際には、我々は喜びの感情に満たされる
エチカでは、さらに細かく分析される
Ex. 愛という喜び、共感の喜び

【ねたみ分析】
自分と同等だとおもうがゆえにねたむ
ねたみ=憎しみそのもの=悲しみの感情
ねたんでいるとき=より小なる完全性へと向かい、活動能力を低下させている=自分の持っている力を十分に発揮できない

ほめ: ねたみは活動能力を低下させることになることになるから悪いことと書いてある

あかり: 人をねたんでそれを負の力にするんじゃなくて、正の力にすることもできる

あかり:
● 同じ事象だけど、その捉え方で、ねたみにもあこがれにもなる
● 受け取り方次第でいいものにも悪いものにもなる
● そういう感情になったときにその言葉をあてがっただけ

ほめ: スピノザは心の中の現象について細かく言っている気がする


欲望について

《ホメメモ》本質としての力を欲望という

【変状】
=あるものが何らかの刺激をうけ、一定の形態や性質を帯びること

【変状する力】
=コナトゥスを言い換えたもの

☆ 私たちは常に刺激を受けて生きているから、うまく生きていくために、自分のコナトゥスの性質を知ることが大切

【欲望】
=本質としての力

本質は力→ 刺激に応じて様々に変化する

Ex. 私の本質はaという刺激によりAという状態になることを決定される。
→ Aという状態は私にあることをなすように働きかける
この働きかけが欲望であり、欲望は本質そのもの

普通は、不変の本質があってそのうえで欲望という移り気なものが働くと考えられているが、 スピノザは力としての本質が変化しながらたどり着く各々の状態が欲望として作用すると言っている

あかり:
● 唯識説でいえば、
● 欲望は本質そのもの これは、末那識
● 末那識とは、こうしたい、こうなったらいいということで、本性として欲望がある
● 末那識をもとに人間は考えたり動いたりしている
● 外部の刺激からくると、自分の行動を決定される
● 決定されるとは考えなくてもそうしてしまうこと 矢印がついてしまっていること


喜びをもたらす組み合わせ

《ホメメモ》喜びをもたらす組み合わせを見つける

Ex. 他人からの嫌み
→強い精神の持ち主=軽く受け流す=少しの変状しか起きない
→繊細な精神や活動能力が低めのとき=強いショックを受けるかもしれない

→精神の不安定という変状をもたらす
→力は低下、ネガティブな刺激に対しよりいっそう脆弱な状態に
→不安定な状態を脱出しようというコナトゥスが働く
→忘れよう、気にしないようにしようという欲望が生まれる
but力が低下している状態ではそれはうまくいかない

☆ 力が増大するとき人は喜びに満たされる
=喜びをもたらす組み合わせの中にいることこそが、うまく生きるコツ
実験を重ねながらうまく自分に合う組み合わせを見つけることが重要

あかり:
● 高次をとおした反応
● コナトゥスはホメオスタシス(恒常性の維持)のことで、今の状況を維持しようというもの
● 幅もあるし変化していく ダイエットの例やお金の例
● 恒常性といっても変化していく



2022.03.26. あかり&ホメオタス-スピノザと仏教-⓶

⓶-(1) 阿頼耶識や意識

阿頼耶識と決定論

あかり:
● 末那識は欲望
● スピノザ的には欲望は決定していると言っている
● そこに基づいて動く限りはそこから逃れられない
● 欲望や末那識が決定している
● それを変化させることができるのが阿頼耶識
● 欲望を理性ではなく自然と抑えることができるようになる
● 繰り返すことで習慣にしてしまう
● 人間の行動はもともとある欲望はしょうがないが、それ以外に習慣も行動を規定しているんじゃないか、そしてその習慣は変えることができるといったのが阿頼耶識
● スピノザは欲望はあるのを認め、欲望の基になる 心地いいもので環境を作りましょ
● スピノザは末那識付近で止まっている感じがする
● 犯罪もその人がしているのではなく、決定論がそうさせているのだから、その人のせいじゃないと言っていると思う

ほめ:カツアゲの例(中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)/國分功一郎 (著))より

《ホメメモ》能動とは自らの力を表現すること

原因は結果の中で自らの力を表現する
=神という原因は万物という結果において自らの力を表現している

原因と結果の関係=表現の関係 なら、能動の意味も変わってくる

ふつう、能動と受動は行為の矢印の向きで理解される
=私から外が能動、外から私が受動

スピノザの能動
=私が行為の原因になっているとき
=私の外や内で私を原因にする何事かが起こるとき

Ex. 私は自らの行為において自分の力を表現しているときに能動である
私の行為が他人の力をより多く表現しているとき受動である

あかり:
● 決定論なので、スピノザのそこが一神教的な感じがする
● 仏教はそこに縁起 習慣みたいなものまで踏み込んでいる


自由意志はない

あかり:
● 自由意志はない
● 何も考えずにいるとそういう行動をしてしまうのが決定論
● だから罪はない

《ホメメモ》4)行為は多元的に決定されている

【意志は行為を一元的に決定しない】
行為は多くの要因によって規定されている
=一つの行為は多くの要因のもとにあり、それらが共同した結果として行為が実現する
Ex.「身体内の協応構造」

意識せずの従っている習慣(これまでに意識せずに学んだ何らかの形式に従っている習慣)が行為を強く規定する

Ex. 現代の脳神経科学では脳内で行為を行うための運動プログラムが作られた後で、その行為を行おうという意志が意識の中に立ち現れてくることがわかっている
=意志は運動プログラムが作られたことの結果

【意識の存在は否定されない】
「意志」will
「意識」consciousness
↑ 日本で混同しやすいが別物

スピノザは意志が自由な原因であることを否定。
but 意志の存在を意識することは否定しない。

意識とは =「観念の観念」(精神の中に現れる観念についての反省)とスピノザは定義
☆ 意志として感じられる観念が精神の中に現れたときも、それについての観念をメタ・レベルから形成することで、その意志が意識されることになる

Ex. 空腹時に食べ物を目にする
→精神には食べたいという欲望(=観念)が生まれるが、この段階では意識はない
→「食べたいという欲望を抱いている」という観念が生まれたときに意識は生まれる

☆ 行為は複数の要因によって多元的に決定されている。
意識もその要因の一つ
(意識を高度に発達させ、それによって自らの行為を反省的にとらえることができるようになったのが人間の精神の特徴の一つだから)

☆☆  意識は行為に影響をあたえることができる
意識は無力ではないが、万能ではない
=意識では身体の複雑な機構を統制できない
= 習慣もほとんどの場合は意識できない(無意識を意識化することの難しさを説いたのがフロイト、脳内の運動プログラムに至っては意識することは不可能)
∴ 意識は万能ではないし自発的ではないが、行為において何らかの役割は果たせる


あかり:
● 意識は現状を確認するしかできない
● 意志は主体的に何かをしようと思うこと
● 実験では意志は否定されるが、行為をしようとした自分を認識したことはできる。それが意識。
● リベットの実験
● そういう意識が感じたことに、意志という名前を付けているだけかもしれない
● スピノザは自由意志はないと言っている

ほめ: いろんな条件が決めていっている 縁起?

あかり:
● 原因があって結果がある
● 縁起のひとつ、というより法

ほめ:
● 条件をどうするか?
● 仏教の中では阿頼耶識があって、そこに落とし込んでいけば自然とそうなる?

あかり:
● スピノザは行動が欲望で決まった反応をしてしまうと言っている
● 仏教では、欲望(末那識)もあって阿頼耶識もあって、その両方で行動や反応をしている
● スピノザは、その条件を作っていくかというところまで踏み込んでいけば、阿頼耶識のところまでいっているはず


エーリッヒ・フロムの愛するということ

あかり:
● 「愛するということ」に書かれていたのは、布施
● 無条件に与えつづけると、自分に返ってくるということ
それが修行じゃないか

ほめ:
● 鍛錬と書かれていた (訂正:正確には習練と書かれていました)
● 愛は技術である。愛には知識や努力が必要

あかり:修業とは、自分がそうしようと思わなくてもそれができるようになること

ほめ:
● 「愛するということ」の内容には納得したが、そもそも、どうしてよくならなくちゃいけないのか分からなかった。でも「はじめてのスピノザ」を読んで、倫理や善悪についての前提が書いてあるのを読んで納得した。
● 仏教の、よいわるいと使うのが同じ
● そういうことだけど、やっぱり善悪決めていこうよって言っていると分かった。
● 全部修行 生きることすべてが修行
● いい方向は人それぞれ集団ごとによって違うし、範囲によって変わるから範囲をどこまでにするかが重要では
● コミュニケーションせずに想像して終わってしまう
● 想像は自分の範囲をでない


⓶-(2) 前世や仏教

あかりさんの思う、生まれ変わりや前世

あかり:
● 阿頼耶識は自分ひとりでおわらない
● あかりさんのいう前世とは
● 自分行為は周囲の人の阿頼耶識に蓄えられ、それが自分に返ってくる

ほめ: 「その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、自殺希少地域を行く」という本から、洗濯物のエピソード。

あかり:
● 阿頼耶識は部族の風習がよそに影響を与える
● 前世は今やっていることが来世 5年10年後に返ってくる
● 生まれ変わりは出てくる

仏陀は生まれ変わる?
一人に集まったら、5千年前の人が現れる
(訂正:釈迦 イエス ムハンマドは600年ごとくらいでした)


阿頼耶識はコミュニケーション?

ほめ: 阿頼耶識はコミュニケーション?

あかり: 人と人だけではなくモノを介在して でもコミュニケーションは発生する

ほめ:
● コミュニケーションは受け取る側に受容体が必要
● ヴィトゲンシュタインも関係してくるのかなあ?とかも思った。
● 記号と文字と頭の中にある論理


仏教と哲学

あかり:
● 仏教はかなり大きなところを包含しているので哲学があると何かはひっかかることがある
● 仏教は哲学
● スピノザは神を持ちだしているが哲学

ほめ: 
● 宗教と哲学の線引き
● 知りえない世界を扱うのが宗教で、現実の中を考えるのは哲学とチャイさんが言っていました。

第018回 「デルフィの考古遺跡:ギリシア哲学について」
(1:02:00ごろ参照)

 ● 釈迦は哲学者で宗教じゃないのではないか?
● お釈迦様は悩み相談室だった?みんなで生きていこうよ~の人で、後の人がその教えを体系たてたのかもねー



2022.03.26. あかり&ホメオタス-スピノザと仏教-⓷

⓷-(1) 哲学や自由

あらためて本の紹介

ほめ: 
● 今日は突然におよびしてすみません。
「エチカ」は4章からがオススメと、國分功一朗さんは書いていました。

● 國分功一朗さんの「中動態の世界」という本は、
自己責任論ではなく、原因は外にあると言っているところが好きです。
「中動態の世界」は 古代ギリシア語の文法の話から始まっていました。

● 「はじめてのスピノザ」の本には、デカルトやAI、との関係も書いてあってそこも面白いです。


哲学って、なんのためにあるのかな

● 哲学はOS
● OSをもとにして未来を作っていく
● いまのOSはなに?科学教?能力主義?いろんなOSがある
● 何で人間は動いているのかを考えるのが哲学かも
● ずっとそれやってる
● 良くなるように考えて、それを文章にして、それをとりいれて行動する人が多いと社会がそっち方向にいく
● 私たちは動かされている
● 完全に動かされている、けど買っちゃうよねー


学校に行かないということ

不登校児という言い方はよくない?登校児にしたほうがいい
社会の構造が変わってきて求められる大人像も変わってきている


自由とは何か

あかり:
● スピノザの言っている自由意志は作られている
● 自由は何も考えなくても流れて行われていること

《ホメメモ》1)「自由」とは何か

【与えられた条件のもとで力を発揮すること】
● 「エチカ」の目指す最終目標
=人間の自由
● スピノザの目指す自由の状態
=自分に与えられている条件の下でその条件に従って、自分の力をうまく発揮できること


【必然性に従うことこそ自由】
必然的に従うことが自由
=自らの必然性によって存在したり行為したりするときにこそ、その人は自由である
(魚が水の中で泳いでいるときにこそ力を余すことなく発揮できるように、人間の身体や精神にも必然性がある)


【人は実験しながら自由になっていく】
● その人の身体や精神の必然性はあらかじめわかっておらず、実験しながら学んでいく必要がある(第二部定理24)
● 人は生まれながらに自由ではなく、自由になる、あるいは自らを自由にする(第4部定理54.定理68)

大人になれば自らの心身を十分に知ることができるわけではない
=身体のなしうることすべてを説明し得るほど正確に身体を理解してはいない
=精神のなしうることすべてを説明しうるほど正確に精神を理解していない


【自由の反対は強制】
自由の反対は強制 (最初、必然的といわれて、それが強制されるに言い換えられている)


【強制とは本質が踏みにじられている状態】
強制という状態=本質が踏みにじられている状態
=その人に与えられた心身の条件が無視され何かを押し付けられている状態 =外部の原因によってその本質が圧倒されている状態(存在の仕方を決定されてしまっている状態)

その人に与えられた条件=その人の本質と結びついている
Ex. かつて受けた虐待に支配され、自分を痛めつける行動をする青年

あかり:
● そもそも制約の上でレールに乗っている状態が自由
● 制約は意識しない、でも分かっている
● そのレールから外れると不自由になる

ほめ:
条件から解放されたら自由だけど、社会とうまくやれるかはやってみなければ分からない

⓷-(2) スピノザの神

スピノザの神の話

あかり:
● スピノザの神の話
● 神は外側はない
● 宇宙の始まりは分かっていないが、今の宇宙じゃないのもたくさんある(マルチバース)
● 別の物理法則の宇宙があるなら、我々の宇宙の神と別の神がいるのではないか
● パソコンのソフトにとってはOSが宇宙、それを作った人間のことは認知することはできない。だから、OSがスピノザのいう神なんじゃないか。


思うと信じるの違いが気になった

あかり:
● そう思ったほうがうまく生活できるから、そういうことにして、それに従って生きているのが思う
● 信じるはそれ以外はないって感じ

ほめ:
信じるは何回も思うことによって、阿頼耶識になっちゃった感じぽい


名付けたい

ほめ: 名付けたらいいこといっぱいある
あかり: こころをコントロールしやすくなる
ほめ: 言葉は道具として使えてすごーい。言葉と体はつながっている。



2022.03.26. あかり&ホメオタス-スピノザと仏教-⓸

⓸-(1) スピノザや仏教

スピノザ的神との関係

あかり:
● スピノザの考えは自分と外の環境を別のものとしている(影響は受けているが)
● 仏教は外の環境は自分そのものだといっている
● 赤い花があるのは本当にあるかどうかではなく、自分の中に見えているだけという話
● 環境は自分自身である、切り離せない 、区別がない
● スピノザは環境と自分の関係性によって物事が決まる
● 仏教は全ては自分の中だけで物事が決まっている
● 仏教は関係性から解放されて自由自在になっている。それが本当の自由
● 人のことではなく自分事として対応できる
● 「愛するということ」に書かれていた、母の子に対する愛情のような
● 汎神論的な神も自分とイコールが仏教

《ホメメモ》私たちは神という実体の変状である

【私たちは神という実体の変状である】
● 変状=物が何らかの形態や性質を帯びること
● 実体=実際に存在しているもののこと
● 神=自然であり、実体とも呼ばれる「神が唯一の実体である」
● 私たち=神という実体の変状である
私たちは、条件が変われば消えてしまう
Ex. 神は無限に広がるシーツのようなものとしてたとえると、個物はその皺のようなもの

【万物は神の存在の様態である】
● 様態=個物=仕方、やり方、様式
個物が神が存在するにあたっての様式であるなら、それぞれの個物はそれぞれの仕方で神が存在したり作用したりする力を表現していると考えることができる
=神の力は神秘的な無既定の力ではない
=神の力とは自然の法則そのものである
=自然法則という力を表現している

様態=神の実体の変状にすぎない
↑  それぞれの様態は個物としての本質を持つ
☆ 神の変状であり神の一部であるが、それぞれが神であるわけではなく、幻想でもなく、それぞれの個物は本質をもつ

あかり: 日本の自然崇拝に近い気がする


死は怖い?

《ホメメモ》死とは本質が組み換わること

● 死=私の本質を支えていた諸々の関係が変化しべつものになってしまうこと
● 死=死骸になる死、精神の諸部分の組み合わせの変更(Ex. 記憶をなくす)
子供の成長も本質が生まれ変わっている

ほめ:
● 死は怖くないと言えるが、常に怖いとも言える
● 幸せでもすぐに不幸になれます

あかり:幸せは周りにも伝わっていて、自分がいなくなってもどこかに残っている、気持ちは残っているから怖くない?

ほめ: 何のために生きているのかが気になる


⓸-(2) 自由や苦

スピノザの自由

あかり: スピノザの自由とは 主体で考えずに境遇に従うのが自由

ほめ:
● それはは誰かへのアンチテーゼの発言では?
● 必然性に従うのは自由といっているので必然性は何か?

あかり: 今ある社会に従うこと?

ほめ: 「エチカ」は今ある場所でどう生きていくかの話だから

あかり: やれる範囲でしかやっていない


自由な意志など存在しない

《ホメメモ》自由は自発性ではない

スピノザにおける自由
=必然性や能動性に結びついている
=能動的になることである
=行為において自らの力が表現されていること (自発性のことではない)

自発的である
=何者からも影響も命令も受けず自分が純粋な出発点となって何事かをなすこと

スピノザ哲学は自発性を否定する
↑ それは、いかなる行為にも原因があるから。

☆ 自分が自発的に何かをしたと思えるのはその原因を意識できていないから。 =意識は結果だけを受け取るようにできている →自発性を信じてしまう

あかり:
● それは因果のところ
● 制約の中での動きの選択はあってもいいんじゃないかな
● 制約がなければ何もない

ほめ: 自由って何もできなくなる


仏教の苦

あかり:
● 不確定性原理
● 制限しなければ観察できないので確定できない
● 意識した瞬間に意志は自由じゃなくなる
● それが仏教で苦と定義しているんじゃないか
● 自由が妨げられるのが苦

ほめ:
● 苦ばっかり
● 美味しいも気持ちいいも苦?
● 思わなかったらないも一緒。そうだとしたら仏教って寂しい

あかり: 苦は周囲の環境から止められる。幸せを感じることは自分の中で完結することができる。

ほめ:
● 最初からなかったら苦しいことはない
● 創造すらできていないことはないってこと、
● ねたみは持っている自分を想像できるからうまれるんじゃないか


⓸-(3) 相談されるのが苦手

解決しようと思うとき

あかり: 
● 相談されるのが苦手
● 解決しようと思ってしまうから行き詰まってしまう
● 解決しなくていい状態に持っていけば解決
● ねたみの対象というものがあるのではない、自分の中に出てきたものだから、自分で消すことができる

ほめ:ねたみの感情が出てきても、あれは宇宙人だからと思う


コミュニケーションをとっていくしかない

ガラスを割ったとき、二つのことがある
● 大変だと思う気持ち(← 自分の感情だからいいんじゃないと思ってしまえばいい)
● 割れたガラス(← 放っておいたら危ないからなんとかしなくてはいけない)

自分の中で解決できることばかりじゃない

使い方を分かるためには、知るしかない→ 知るためにはコミュニケーションをとっていくしかない

面倒くさいけどおもしろいですね

(以上、ふたりのトーク「2022.03.26. あかり&ホメオタス-スピノザと仏教」の内容でした。)




終わった後のDMと、今後について

ほめ: 今日はありがとうございました〜〜
あかりさんの阿頼耶識と生まれ変わり、知れて、実り多い会話でしたー!
また頭の中まとめなおして、あかりさんに聞きまーす!!
そうそうこんな面白い箇所が↓ 

《ホメメモ》 思惟と延長以外にも属性がある

スピノザ哲学最難関概念である属性であるが、
エチカでは、「神は思惟と延長の二つの属性だけではなく、無限に多くの属性を有している」と書いている(第一部定理11)

神は思惟と延長の二つの属性だけでなく、無限に多くの属性から成っている。
しかし人間はその知的限界ゆえに、そのうちのたった二つしか知ることができない。

理論物理学には今、ユニヴァースならぬマルチヴァースなるものを論じる「多元宇宙論」という分野が存在している。
(スピノザとは直接関係ないかもしれないが、どこかスピノザの発想に通ずるものを感じる)

無限の属性ってなにかなあ〜って…たのしいですね

あかり: 
● マルチバースは計算式から導かれたものですが、発想自体は仏教の六道などはそうですね。理解しやすい。

● 属性は「事物」ではなく様態の「集合」である

● マルチバースもそうですが対生成(空即是色)や生体元素の新陳代謝(輪廻転生)など仏教はここまで予見していたかの様に思えてしまいます。
だとしたら時間のretrocausiality概念(三世因果)も導かれそうだし、逆に全く未知の事象も仏教を起点に科学的発想、立証するという手法も出てきそうです。

● 疾病について仏教がどう解釈してるのかを読み解く事で未解明な病態や治療方針が見つかるかも、と想像していた頃があります。

● 高次元からの視点で問題解決が容易になるという手法からの提起


そして、このnoteを確認してもらった後のあかりさんの反応は…

● この時はこう考えてたのだろうな、な感じです。
ほめさんに言葉を引き出されていたようです。
ほめメモに目を通すだけでもかなりのボリュームでした。
哲学を哲学しようとしたらBBが足らないので、自分の守備範囲で語るしか言葉を紡げない。

● リベットの実験で、解釈が改めつつあります。
まだ解明されてはないのですが、意識は脳の神経細胞には無いとする事で理解が可能かも。
グリア細胞の機能か


⇧こんな感じです。

ほんと、このnote読める人いるのかしら(笑)
完全に、自分に向けて書いたのでこんなふうになってしまいました。

こうまとめてみると、私はやっぱりスピノザさんより、あかりさんのほうに興味がありますねえ。
あかりさんはお話上手です。
話していると、自分の中から引きだされる感じがします。

あかりさんの、
「高次元からの視点で問題解決が容易になるという手法からの提起」
「意識は脳の神経細胞には無いとする事」「グリア細胞」

…… これは気になるが、気になるんですが…ついていけるかなあ…

さあ!あかりさんとこの話題について話したい人はいませんか?

さて、「ふたりのトーク」は、いろいろ忙しくて休眠状態になっていますが、機会があれば(やりたい人がいたら)またやりたいなあと思っています。
以前は、くじ引きで相手を決めてましたが、この人とこんな話がしたいなど、二人だったらなんでもいいというルールにしても面白いかなあと思っています。

ふたりでしか作れない世界を見てみませんか?

(ホメオタスより)


今回出てきた本


はじめてのスピノザ 自由へのエチカ/ 國分 功一郎 (著)


愛するということ /エーリッヒ・フロム (著), 鈴木 晶 (翻訳)


『論理哲学論考』を読む /野矢 茂樹 (著)


その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行く― /森川すいめい (著)


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