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第三話 舎弟と青服非常勤:境壊

一、
  布団の中。

 男は、ようやく目が覚めた。

 黒い柱が支える古い家屋は、黒い格子に区切られた障子紙の向こうからの光で薄ぼんやりと照らされてる。明るさのわりに家の中の印象は重たい。
 頭を上げようとすると湿気を含んだ自分の髪が重く頭が思うように上がらない。目の霞が治まらないまま自分が寝こむ直前の事を思い出す。身体以上に重たく感じる布団を持ち上げることができず起き上がれる気がしない。だが今日は調子がいいきがする。

 思い出した。

 日に日に体調が悪化し、直前に布団に入って以来今日に至るまで男は考える間もなく眠りについたまま起き上がることができなかった。一応、時間関係なしに目が覚めるも、また気絶するように眠る。そんな日々を過ごしていた。あれからどれだけたったことか。
 今日は調子がいいと思ってから身をよじり横を向いて、四肢を地面につけて這いつくばる。そうして小一時間ほどかけてなんとか起き上がることができた。寝室の引き戸が重い、知らぬ間に家がまた傾いたのかと思いつつ力を込めると重々しくゆっくり開いた。

 階段というより梯子のような角度の階段を後ろ向きに手をついて一段づつ降りふと気づく、家畜はどうしたのだったか。
 埃が積もる廊下を擦り足でなんとか抜け家畜部屋につながる扉を開けると、そこには何もなく安心した。自分が倒れる前にちゃんとしておいたようだった。

 男は洗面台の前に立った。乾いた雑巾、濡れた雑巾で埃をはらう。鏡には自身でも驚くようなヒゲと髪の量だった。男は髪を小さな束にまとめ、取り出したハサミで髪を切り出した。

二、
 ファミレスの中は平日の昼の忙しい時間帯を過ぎ混雑していたないもかかわらず一部が騒がしくしていた。いつも一人で食事をとっている女性が同年代の男性を連れ立って初めて入店してきたので一部の店員達は店長に怒られるまで厨房内で駄弁っていた。人の身ならばそんな所での会話は聞こえないだろうが、狐と貂の怪異には筒抜けだった。だがそんな会話で恥ずかしがるような間柄でもなかった。というか数百年前にも同じような茶化しは二人共息をするようにされてきたし、元々同じ戦場で味方として戦い、同じ釜の飯を争って喰った仲だった。
 「まさか奢る飯を食う前に断られるとはな。」
 貂の怪異は見た目である青年よりも落ち着いた拍子で口を開いた。
 「受けない理由はないが予定が立てこんでるんだ。この間の新宿駅に出た巨大鶏と一緒に現れた人間を捕まえて欲しいって言われてな。」
 新宿駅に二度現れたバスターミナルよりも大きい巨大鶏、鶏と呼ばれていたがその姿は異常でぶどうの房のように目玉が大量についた胴体。二度目に現れた際には鶏でありながら飛翔して東京駅まで移動して、東京駅に隠されていた何本かから成る木柱をひと噛みで破壊した。
 その巨大鶏にとどめを刺したのは皐月で、木札を使った呪術で燃やし切り、残った肉や灰はノリが所属する青服が処分した。ただ、二度目に飛翔した鶏を逃がすという失敗を犯した師走は事件後こっ酷く叱られたらしい。
 「え、被害者な師走が叱られるのか?投槍で吹き飛ばされたんならブチ切れてもしょうが無いんじゃ……」
 「現場鑑定の話は回ってないのか。どちらにしろ師走は認識する攻撃に対して自身を透過させるかとりあえず受けておくようにする傾向がある。」
 何言ってんだこいつ、という顔を皐月がするとノリは軽く苛ついた調子で続けた。
 「物質には僅かな隙間があって、物質同士がぶつかってもその隙間に入ればすり抜けられるっていうトンデモ科学?があるんだよ、師走は自身の後方に防衛対象がいない限りはそれを優先する傾向がある。」
 「無敵か。」
 話を聞けと、呆れながら続けた。
 「現場からはツノオリと呼ばれるお香の成分がわずかながら出た。これはかつてドラゴンや龍と言った存在を狩猟するのに使われていたらしい。身体機能の一部を特定の霊的な力で補っている怪異には猛毒なんだと。」
 それで現場にいた青年は「外れている」と言ったのに、師走は人の形を忘れるほど毒に酔ってしまったのか。と皐月は納得したようだ。
 「ともかく、師走は投槍には無敵だとしてもだ。槍に塗られた毒にやられてたら世話がない。前々から攻撃は受けずに流すか防げと注意されてたんだ。今回は完全にあいつの判断ミス。師走が悪い。」
 そういう話をしていると店員が日替わり定食を運んできて二人の目の前に並べた。食事の前で遠慮をしない二人はそれぞれの食事に手を流れるようにつけながら会話を再開した。
 「皐月の目の前に現れた人間と、槍を投げた存在の2つを追う感じか。地味に面倒だな。」
 槍を投げた存在は誰かなのか、装置のようなものか青服もまだ解っていない所のようだなと整理したノリだったが、皐月が口を開いた。

 「カワナ」

 ノリが銀紙に包まれたハンバーグを一口サイズにすべて切り分けていると、皐月はホッケから背骨を外して皿の上に避けているところだった。
 「カワナ・ヤストというらしい。」
 「なんだ、面も名前も割れてるなら早い話だ。」
 確かに、顔やせ格好は何人かその場で目撃している。流石にあれから数カ月あったのだから、そこまで捜査できているらしい。

 「二十年くらい前に死んでるらしい。」
 一瞬それを聞いたノリが固まり、間があって一気に吹き出した。
 「おまえ、幽霊に負けたの?」
 変に笑いを堪えようとするノリに皐月は腹立ちながらも、カワナとあった時のことを思い返していた。

 基本的に霊体を防御する機能を肉体は補っている。その為、明確な死を体験していない動物怪異にとってはイガも殻もない甘栗みたいな幽霊に遅れを取ることは基本無い。変質し呪いを纏った怨霊ならまだしも。
 その事は皐月も理解している。だがそれ故に腑に落ちてはいなかった。ごった返す人間とカシバ特有の濡れた土の匂い。師走の匂い。だが死人の匂いはせず、あそこまではっきり見える幽霊のような気配もなかった。
 「ともかく、アタシにやらせたい事ってなんだったんだ?」
「犯人探しだよ。連続殺人の。」
 そう言いながらノリはポケットからおもむろに白い石のようなものを取り出し、机の上に置いて皐月に渡した。
 「何これ。」
 動物の骨っぽいが、臭いもないし霊的な残滓もない、言うなら写生やスケッチなんかでつかうような偽物の石膏のようだった。
 「人骨だそうだ。」
 「え。」
 改めて匂いを嗅ぐが全くわからない。

  皐月の表情は暗くなっていった。

三、
 連続殺人の件は表にはまだ公表されていないのもあって、駅前はいつも通りのにぎわいをみせている。この時間は出勤するサラリーマンもだが最寄りにある総合病院を目指してくるお年寄りの方が心なしかおおい。
 しんみり、駅と広場の間で立っていると同じくらいの身長の青年が近寄ってきた。
 「すみません、ノリさんでしょうか?」
 ノリは営業的な笑顔を見せながらそうだと答えた。
 「皐月からお仕事を頂きました、新倉 カズと申します。」


 昼間は喫茶店、夜はバーになる店のテーブルに二人は向かい合い安いコーヒーを並べた。普段ならとっとと現場に向かいたい所だったが、ノリは皐月のカズの紹介に引っかかるところがありそれを確かめたくてわざわざ人気のない店を選んだ。
 他に客はいない。店長である老人は何も聴いてませんよ、と背中に書いてあるかのようにワイドショーを注視している。
 「あの、多分僕の事ですよね。お話って。」
 「あぁ、察しがいいな。」
 ノリも道中カズの事を探ろうとあれこれ集中していたが何もわからなかった。確かに獣っぽさもあるし人っぽさもある、皐月や自身ともまた違う感じが僅かにする程度だった。身なりもカジュアルスーツだが中のシャツはしっかりアイロンがけしてあるし所作も丁寧で、見た目年齢の同世代と比べるまでもない、就活に勤しむリクルートスーツを着る学生とは一線を画した品がある。気になることは気になっているが本当に皐月の舎弟なのかと別の不安をノリは覚えたが、それは前者の疑問ほど自身の存在に影響はない。
 「皐月の舎弟なら知っているだろうが、カシバの泥のケモノたちは現し世に行こうともがいているが、大半は出てこれない。」
 これは誰も理由を知らない。カシバの泥のケモノには知性、理性そういったものがない。本人たちも何も語れない。
 「俺もカシバの泥のケモノがどんなものか詳しく知らない。もとより泥のケモノは形は様々あって個々の能力も統一されてるわけでもない。」
 カシバの海には水がない。その代わりのように海底には無数のカシバの泥のケモノが蠢いている。現し世が夜になると海底から這い上がろうともがき始め、這い上がりきるとそのまま音もなくカシバの地上をかける。モノによっては地上にいる人間や怪異を襲う。そしてまた海底へ向かっていく。絶対的に東から西へと動いているそうだ。
 「要は話せるカシバの泥のケモノなんてそう居ない。カズ、本当にお前はカシバの泥なのか……?」
 ノリは足と手を組みカズを真っ直ぐにみた。
 カズは特段嫌な顔や呆れた表情もせずに返した
 「そう、らしいです。」
 腕を切れば血ではなく泥が流れるという。怪訝青顔をするノリにカズは袖をめくって白っぽい腕を差し出す。失敬、とノリは確かめるように触る。質感は人間の皮そのもで、あたかも皮下で血液が流れているかのようにほんのり赤い。人っぽさに矛盾がない。——でもまぁ、とノリはカズの腕から手を離しそのままコーヒーを呑んだ。
 皐月がこいつと数十年と一緒に居られたというのは、それこそノリにとっては保証にもなった。
 「お前の正体は了解した。まぁ何かあったら俺が消す。それでいいな。」
 ぎこちない笑顔でそれでおねがいします、とカズは返した。

 「ともあれ、仕事の続きだ。」
そう言うとノリはカズを促して喫茶店を出た。コーヒー一杯ぐらいちゃんと呑めと言われたがが「昔みたいにちゃんと入れるんならな」とかえすと老人は何も言わず会計をすませた。

 駅からまっすぐアーケードを抜けた先にある団地に囲まれた公園に二人は訪れた。
「公園で最初に見つかったのは肋骨の一部だった。最初は単純に事件があったと思われていたが、同じ種類の骨が複数見つかった事で被害者が複数いると判断した。骨からは一切の手がかりが見つからないがな。」
 ノリは公園をどこともなしに見渡しながら話しているとカズは不安げな顔をしていた。
 「この件、実は皐月から詳しく聞けなかったんです。というか、連続殺人という事も……聞いてなくて。」

 「まぁ、俺以上に皐月の方が人間を気に入ってるからな。」
 あぁ、と納得するカズにノリは追い打ちをかけた。
 「すでに犯人の目星は付いている。証拠が残っていながら追跡が出来ないようにする手際の良さから判断して間違いない。人屋と呼ばれてる夫婦だ。」
 ひとや……と繰り返すカズにノリは答えた。
 「魚屋って言うと、魚をさばいて売ってるだろ?花屋とか。同じ感じでそう呼ばれてる。ほ」
 「人肉を?」
 「そうだ。」 
 あからさまに嫌な顔をするカズにノリは顔の出さなかったが内心、安心した。


 二人は公園を駅とは反対方向に離れ歩いていた。その先の川の向こうに人屋から肉を卸している輩の所へ向かった。単純な話、自分達の痕跡を消すのが上手いのは人屋だけなのだ。骨には肉を食べた怪異の痕跡がわりと残っており、あっという間に青服はその間抜けな怪異を捕え尋問した。ただ、その間抜けな怪異の口から人屋の名前が出た瞬間、その周りにいた青服達が手を引いたのだ。
 「カラスの商売に直に関わるからやりたくないとさ。」
 「カラスと言うのは旅烏さんのお家ですよね、僕も高校に入る際にお世話になりましたが。」
 「怪異に法律は無用だから余計にやる事がえげつないと評判の旅烏でな。タチの悪いヤクザの一種だよ。」
 そうノリは鼻で笑ったが、カズはよくわかってないようだった。多分、皐月が最低限しか接しなくてよいようにしてきたんだろう。

 旅烏がいつから正確に活動してるかわからない。現在の旅烏の一族は大手旅行会社、土地、銀行を運用、。怪異どころか人間の生活を支えている分家と、怪異が人間社会で暮らせるよう色んな調整を行う分家、それをまとめる本家の三家が存在する。
 「怪異には一定数、人肉を必要とするものがいる。その調達を仕切ってるのも旅烏だ。」

 そしてこの捜査自体が旅烏の依頼でもある。人肉売買のシマを荒らした輩を捕まえてほしいと。

 泥臭い川を渡った先、しばらくは銀色の太いパイプが複雑に絡みあう工場が続いて、パイプの塊の中の谷間に唐突に四角い箱と言った飾り気のない建物がぽっと建っている。表札というか木の板にはカズも知っている物騒な名前が書いてあった。
 「まさかヤクザの事務所にのりこむんですか……?」
カズが嫌な予感しかしないといった、心配そうにノリの方へ向くと、そこにノリの姿はなく、彩度の高い派手目のスーツを着た人相の悪いガタイのいい男が立っていた。それはもうヤクザといえばこうだろぐらいの格好だった。
 「本当に誰だか気づきませんでしたよ。」
 「相手が分かってるからな、奴らの身内の姿なら問題ねぇだろ。お前は黙ってついてこりゃ大丈夫だよ。」
 「それバレたら大変なのでは……」
 歩き方まで変えてそのまま事務所の扉を開けて入っていく。カズはその後ろをつかず離れず、表情も出さないよう気をつけようと気合をいれているよだった。すると突然叱りつけられたかのような大声で挨拶された。ノリは「おう」と慣れているかのようにただ歩き進んでいく。建物は5階建てでめざすのは4階の事務室だったが、構成員に会うたびにカズは階数が増えてるんじゃないかと錯覚したと、後ほど語っていた。
 4階、事務室。
 たどり着くとノリは遠慮無しに開けた。
 「誰だテメェ」
 カズにとって想像していた反応と違った。しっかりとした普通のオフィスでヤクザの事務所だと言われても疑う程普通の空間。だがそこには彩度の高い派手目のスーツを着たガタイのいい男がいた。先ほノリが変化した格好そのままで、不味いとノリをみて解った。すでにノリは変化を解いて元の青年の姿に戻っていた。
 「ここにコバってやつ居るだろ?間抜け妖怪に人肉を売ってる馬鹿だ。人屋は今、どこに居る?」
 実はどいつがコバというやつかノリは知っている。
 「知らねぇよ。痛い目見たくなきゃとっとと失せろ。」
 「そうそう、間抜け妖怪曰くあんたみたいに体格が良いらしいんだよ。」
 彩度の高い派手目のスーツをダルそうに羽織った男がノリを睨みつける。だがノリはお構いなしに部屋にズカズカ入る。かと思った瞬間に体格のいい、コバと思われる男の背後に回り込みつつ首に飛び乗って足を引っ掛けた。足に相当力を込めているらしくコバはノリを引き剥がせず僅かばかりの抵抗として太腿の肉に爪を食い込ませる。だがノリは気にしないどころかどこか余裕そうに足で首を締め続けている。
 周りの連中といえば何が起ているのかわからないと口を半開きにして呆然としていたが、突然我にかえって兄貴に何しやがると刃物を持ち出してきた。ノリは自分が作った状況とはいえ、余裕ではあるが話が進まん。と考えを巡らせているとカズが一人のひょろ長い地味なスーツを着た男に棒状にした鎖の先にある刃物を首もとに当てつつノリの盾になるよう入ってきた。
 「わ、若頭……」
その時のカズは人の形を僅かにとどめながらも、下半身はケンタウロスのように白い狼の身体を生やしていた。額には薄いが鋭利なナイフの様な黒く冷たい角が一対生えている。本来の姿はそういう姿らしい。 

 「スーツと時計、靴。合わせ方が他の方と違って丁寧だなって思いまして。」
 観察のできるいい舎弟。と評価をさらに上げていく。ただ皐月に対する評価が謎になっていくのをノリは感じていた。
 「コバ、お前んとこの上がこの事知っているかどうかはさておき。旅烏に目ぇつけられてんの解ってんのか?」
ノリの太腿にめり込んでいるコバの手が緩んだ。若頭と呼ばれた男は何の事だと怒鳴り散らしながら縛られた身体をなんとかひねり目線をコバにやると、コバは今度こそ観念したのか両腕で降参と示してきた。ノリはついでにあの名前も言ってやろうかと思ったが、ソコはやめた。これ以上騒ぎになっても面倒だし、最も重要なのは人屋がどこに居るのかだ。
 「人屋は何処だ。」
 「……今頃は〇〇総合病院だ。」



 最悪だと、ノリは毒づいた。

 自身の痕跡を全く残さず人攫いが出来る人屋とて、昭和後期頃のセキュリティという概念が緩かった頃から以前のように無作為に人を攫うことが出来なくなった。情報の高速化、メディア網が完成し、誰もが家には鍵をかけるようになり、子供ですらどんどん他人を信用しなくなっていった時代。人屋は人間を簡単に狩ることができず、仕事がままならなくなっていた。さらに他の怪異相手では約束事を簡単に破るし舐めてかかってくるなど信用がならず、結局人屋は人間を、ヤクザを頼った。

 人屋の殺人は痕跡が残らないため、いつ、誰が殺したか知られず殺しができる。最初は口封じや見せしめだった。都合の良さに気付いたヤクザは、次第に自分たちの政治の為に殺しを依頼するようになった。ただ今度は人屋が困った。肉を余らせるようになった。そこでヤクザは人屋に持ちかけた。「人肉を欲してる妖怪に売ろう」と。今日の状況に至ったそうだ。

「…赤子を狙わせた。」
 二人ともこのヤクザがどんな組織で、どんな政治があってなんか興味がなかった。だが、人屋の方から「赤子が欲しい」と要望があったため、死んでくれれば都合がいい組織内上層の赤子を探し人屋に伝えたと。そう聞いた瞬間にノリの雰囲気というか存在感というか重さが増したようにその場にいた全員が感じた。
 二人が慌てて病院へ向かおうとすると、流石に手下が追ってこようとする。震えてはいたが怒声を上げて刃物や拳銃をもって迫ろうとしてきた。だがそんなものに興味はないとばかりにノリは去り際にそのフロアに木片に呪符巻いたものを一つ投げ捨て、火を放った。流石にカズもやり過ぎではと感じそういう視線を送られたことをノリは感じていたが無視した。下手に燃え広がれば裏手の工場に移りかねないわけで。ただ、恐らく消火器と反対側に放ったのは僅かばかりの優しさなのだろう。カズも非難しようと考えたが意見は飲み込んだ。思えば人屋を使ってこのコバと言う奴は分かっているだけで数人、さっきの話を考えれば何人殺してきたのか解らない。だからといって私刑を行っていいわけではないが。



 件の病院にたどり着くと玄関口をくぐると同時にカシバに渡った。流石総合病院という心霊話に事欠かない場所だ。そこかしこになんだかわからない塊。待合所で追いかけっ子をする小さな子どもたちがいるが、全員からだのどこかが欠けている。かと思えば、多分生きているであろうご老人もいる。流石に驚いた二人は慌てて「まっすぐ戻れ」とノリが大きな声で追い返そうとするが口元でもごもご言うばかりでいっこうに戻ってくれない。しょうが無いので二人がかりで柱向こうに追い返した。姿が見えなくなったので現世に戻ったと思うが、空間の曖昧さが尋常ではない。例の赤子のところへ向かうために、階段を登ろうと向き直った時だった。赤子を胸元で抱っこ紐で支えたボサ髪の男性がそこにいた。
 ——今は人屋の夫婦は死んで、倅が一人でやってる。
 そう聞かされていた。
「その子を置いていけ。今なら、」
 ノリが交渉しようとした瞬間男は踵を返し階段を駆け上がり逃げられてしまった。舌打ちをするノリを気にもせずカズは再び半身獣の姿に戻り、一足飛びっで男が逃げた先の段まで登りきりノリも続くように一足飛びで駆け上がると男の後ろ姿が見えた。
 男が廊下突き当りで自由に動かせる方の右腕を目線の高さに掲げると腕から黒い水が手のひらへ這い登り、そのまま床へと滴り落ちる。だが、よく見れは水滴のように落ちるのではなかったし、黒い水でもなかった。大量の髪が地面を求める様にもぞもそと伸びていき地面に行き着くと蜘蛛の巣や菌類のように広がっていく。そう思った瞬間、男の周りから色がなくなりその辺をただ徘徊していた魑魅魍魎や子供の霊は怯えたようにに騒ぎたてどこかへ行ってしまった。

 四、

 二人共無我夢中で人屋を抑えようと駆け寄った結果だった。目の前が赤、青、緑の光にわかれたような感覚を覚えた次の瞬間、そこはどこまでも濃霧に囲われた空間で、十数メートルぐらいまでしか視界が開けていない。その割にあかるいせいで、濃厚な水墨画のような空間だ。
 「すごい湿気、カシバにも似ていますがそれ以上の居づらさですね。」
 「あぁ、結構無理やり作った結界だろうな。場所によって空間が傾いてる……。」
 垂直に立ってるはずなのに常に踏ん張っていないと倒れそうになる。かと思って数歩進めば急にそんな感覚はなくなる。場所は相変わらず平らな岩と黒い短い葉っぱが生えた平原であるはずなのに、だ。
 そして、霧の中というか水や氷の雲の中のような寒さと湿気とカシバのような土臭さ。もっと言えばカビのような、普通の人間に耐えられるのか解らないような所。そんな所に赤子が連れて来られているのを思い出し二人は霧の中を進んでいく。地面は所々黒い平らな石が敷き詰められて道のように続いているようだが、基本的には黒い沼地でひどく歩きにくい。たまに生えているすすきのような植物は真っ黒な茎と房を蓄え僅かな風圧でカサカサなっている、他の生き物も草花も無いためおおよそ色と呼べるようなものは存在しないんじゃないか、少し不安になったノリは自分の手を見やる。偽物の人体とはいえ皮膚の下に血液と血管の色を認識するとなんとなく安心した。と、考えていると二階建ての黒い瓦と黒い柱。白い壁の屋敷が現れた。その奥にはコンクリート製の同じような家屋があり、よくみると二棟はつながっている様だった。
 「誰もいない?」
 「あぁ、だが確認しておくぞ。」
 恐らく勝手口であろう木製の薄い引き戸を慎重にあける。台所であっていたようだ。土の敷かれた古い作りなのは手前の部分だけで、ガスコンロと大きめの食器棚と六人掛けのテーブルが綺麗に並んでいる。現代でも稀にみる古い家の内装といった所だ。
 「最近は流し場を少し使ったぐらい、みたいですね。それ以外は埃がすごい。」
 「このまま靴履いたままであがるぞ。埃がない所だけ探す。」
 そう言いながらノリは二階へ登る。
 カズはそのまま一階の奥へ向かった。

 黒い階段はもはや階段というより梯子みたいな傾斜になっている。ともかく登り切ると廊下が家の端まで続いている。両脇は障子の貼られた引き戸で閉ざされているが明らかに左手側は外の明るさを通している。そして反対側は寝室のようだった。
 古書と布団。新聞、「狩」「納」「入金」「手配」と書かれた20年くらい前のカレンダー。押入れにある二人分の布団。最後の夫婦の部屋のようだ。続いて此方も男女二人分の部屋のようだ。真ん中に線が書いてあり両脇に学習机がある。だが、並んでいるのは人体や動物の体に関係する本だったり、一族で書き溜めてきたであろう解体についての袋とじの和書。一応5教科の教科書も並んでいるが古かった。おそらく小学生前後なんだろう、それ以外もかわいい童話系と働く車の児童書がそれぞれの机においてある。完全に人であることを捨ててないのところが救いであり、哀れだ。男の子の方は自分で書いた働く車…だと思うクレヨン画を壁に飾ってまでいる。そしてこの子供部屋に引かれた線を横断するように敷かれた布団。それは、今朝方まで先ほどの男が使っていたのだろう。匂いが結構新しい。
 最後の部屋には押入れと呪術の本が大量にある。押入れにもそうだが、そこら中、紙と紐で束にされた髪だらけだった。一定の長さと量に分けられた髪がそれぞれの入れ物にきっちりと容器に整理されている。半紙に墨汁は専用の物らしく獣というか何かのにおいが混ざっている。半紙に何かの術式、おそらくここの結界の一部を髪に移しているようだった。匂いもだが呪術的な要素が濃すぎて居づらいことこの上ない。もうここにはいたくない、埃の積もり具合を見てもこれ以上何かある感じもないので下にいるカズと合流しようと階段を梯子を下りるように降りた。
 下の二つ連なる客間の隅にある仏壇?のまえで立ったままそのあたりにあった書類を持っているカズにどうだったか訊ねる。
 「奥のコンクリートの建造物も見てきました。」
 「で、どうだった。」
 「……何もいませんでした。」
 それにしては浮かない顔で手に持っていた水道代やガス代の料金表を封筒戻しながら続けた。
 「あそこはたぶん、連れてきた人間をあそこで…飼ってたんだと思います。解体作業場もありました。」
 言われて銀色のドアノブを回して開ける。言われた通り、畳の敷かれた背の低い柵。鎖ではなく太いワイヤー。柵の中には小さな和式トイレがあり、用を足す時だけカーテンを閉めれるように短いレールと布がつけられている。その奥にまた扉があり、簡易的な手術室にも見えるそれは、解体場として使われてきたんだろうとさっせた。
 たしかに気分は悪い。だがこの場所もハズレだ。人屋の匂いはうっすらするが、赤子の匂いはしなかった。勝手口から家中を探したわけだが、赤子自身は家の中に入ってないらしい。
 「ノリさんの鼻でもわからない感じですか?」
 「うーん、人屋の使っている呪術がこの結界由来みたいだからな。全方位にあいつがいる気分がして落ち着かん。ただ、赤子の方は微かだが感じるな。」
 人屋を警戒しすぎて赤子のことを忘れがちになっていたノリは、赤子の方の匂いを改めて辿ることにした。

 霧の後ろにうっすら黒い大きな塊が見えていたのは分かっていたが、どうやらそちらが怪しいらしい。そちらの方に近づいてみると、そこは先ほどの黒いススキと同じく黒い幹と黒い葉、黒い土で構成された黒い森だった。森だと認識するまではまるで白い霧の中に現れたポッカリと開いた穴にしか見えない。
 「獣の臭い?」
 「あぁ、それに血の匂いも混ざってる。」
 森の奥へ、臭いの強い方へとすすんでいく。

  暗いわけではない。日中のようにあたりは見えてはいるが、黒い木と土で空間が暗く思い感じが不快感を増長する。ここも霧がかっているのもあって湿度が高く息苦しい気がしてしまう。

  しばらくすると色のついたものが見え出した。

  色とりどりの紐が連なっている。その束は奥に行くほど太く、本数も増えている。 それと同調するように、血の匂いや異物の気配も強まっていく。奥には開けた空間があり、そこには人屋と赤子。そして怪異がいた。

 「赤子を持ってきたぞ!」
 「おそいぞ」

 そこにいた怪異は頭が猪だった。身体も猪だったが、猪の胴体の上に醜い肉団子が乗っていて、そこから腕五本と頭がはえている。それだけで大きさはノリ自身の三倍ほどあり、体は筋肉質なシルエットで太った醜い身体と言うわけでは無い。だが表面は肉や毛皮というより苔や岩のような硬さをしているのか、艶感はほぼない。

 「ついて来たの……か……」
 人屋はうんざりした顔でノリを見た。

 カズは隠れたままだったが、ノリは関係なしに前に出て行った。様子を伺うなどと言う猶予が、赤子に残ってないように感じたからだ。

 「我が食事処に害獣がおる。掃除せねば落ち着いて喰えぬ……」
 「図体の割に随分神経質なんだなっ」
 ノリが人屋を無視して猪の怪異の真横にくると思いっきり蹴りを入れた。ズンとしっかり音は聞こえたか全く微動だにしない。猪の怪異は赤黒い歯肉と黄ばんだ歯を見せて嘲笑う。ノリも間髪入れず呪符の炎で包むが全く意に介さず笑っている。
 カズはその呪符に見覚えがあった。東京駅で木の柱に齧りつく、大量の目玉を蓄えた巨鶏を燃やした時に自身が使用しているので、威力がどれ程なのか思い出していた。あの時は数十分たたずに巨鶏の殆どを灰に炭にしていたきがするのだが、猪の表面を炎は走るばかりで肉どころか表面の苔もほとんど焼けていない。
 打撃、火、が効かないならとカズは下半身獣の姿で飛び出して、苦い表情のまま鎖を直線状に固定する。その先には長方形型の薄い刃物が付いて槍状態になっている。
 頭、腹、足に。
 縦、横に。
 撫でるように、
 えぐるように、
 刺すように。
 カズは切り付けた。
 「表面の苔止まり……ですか。」
 「火も刃物も通らないのかよ」
 カズは何度も切り込んでみるが一向に通らない。その間、カズが一方的に切りこんでいたわけでもない。背丈だけで自分たちの3倍程ある猪は見かけ以上の速さで鉈を振り回してくる。形状が鉈に似てるからそう呼んでいるがノリたちと同じぐらいの大きな金属板で、どちらかと言えば戸板や扉と言った方がいい大きさ。直撃すればそれだけで終わりだろう。カズも頭を捻って、手のひらや腕を狙うが逆に掴まれそうになったり、拳を躱せば五本ある腕のうちどれかが直ぐに拳を振ってくる始末で攻撃できる隙も少ない。
 そんな状況に悩んでいると、人屋が近くにあった鎌を投げてきた。ノリにとっては意外だった、猪の呪力を受けている割に人間相応の力でしか無かったのだ。
 「お前、そんなにその豚が大事か?」
 「黙って消えろ!!」
 赤子をしっかり抱えたまま人屋はあたりにあるものをノリに投げつけてくる。まぁ、当たる気もないし、ただノリは違和感を感じたまま、脅威の無さを感じると向き直り無視することにした。今のところは赤子を大事に保ってくれそうな気がしたので。
 
 「表面しか削れない……」
  鎖を、武器を手元から掻き消すのが見えてノリはあせった。だがカズは苦し紛れと言うよりはある程度確信があるような表情で猪の方へ近づく。猪は巨体だが動きが遅い訳ではない。
  「前に出るな!!」
 ノリが叫ぶと同時に猪がカズ目掛けて突進した。突進と言うには余りにも短い距離だが風圧が凄まじく二人共瞬間的に身体が浮いた。地面に足がつく前にカズの方にナタのような刃物をもった腕は振り落とされた。だがそこにカズの獣としての下半身はなく、人の姿に戻って刃先を躱し身を低くし他姿勢だった。猪がすかさず振り払おうと腕を引こうとしたところにカズはしがみつく。 
 「ぐああああ」
 間がなく土煙でよく見えなかったがノリは察しがついた。
 「結構それ、エグいと思うんだが。」

 猪は堪らずナタを振り払いたかったが出来なかった。腕には激痛が走る。原因は腕の中にあって腕を払ったところで、どうしょうもない。暴れる猪の腕から樹上へカズはのがれる。なおも猪は暴れ、自由のきく左腕でカズを掴もうとするが右腕の感覚が邪魔をする。
 「やろうと思えば出来るんですね、これ。」
 カズは自在に出現、変形させられる鎖の槍をめちゃくちゃな形状のまま猪の腕の中で出現させた。しかも関節に絡まるように肩から肘手首を指を動かす腱の付近に、だ。
 「いやぶっちゃけ。ドン引きするわ。」
 そういうがノリはだいぶ良い笑顔をした。その時にはカズや猪の知らぬ間に、猪の背中にのっていた。
 消毒してやろう、といながら炎を放つ木札を数枚、鎖が絡まった腕にめがけてふりかけようとした時だった。

 「殺すのは待っていただきます。」

 そう言ったのはこの広場の入り口にいつの間にかいた喪服を着た、黒い長髪の女児だ。見た目小学校高学年と言った容姿だが佇まいや言葉の気迫は大人びたなんてものではなく、動くことを許されていないと本能に感じさせるものだった。

 また知らぬ間に似た雰囲気の同じく小学校高学年風の喪服を着た男児が、固まったままの人屋から赤子を取り上げる。人屋もまた彼女の威圧感に飲み込まれているようだ。

 広場を囲うように黒い樹木が生えているのだが、森の奥から音もなく次々と烏が集まって来る。気色悪い、誰一羽と鳴かないのだ。

 放っておいていると、女児が赤子を受け取るとノリの元へ歩み寄り、赤子をノリに抱かせた。ノリも渡されるがまま女児と視線を合わせるためしゃがむ。女児は渡した赤子に赤い布を三角に折り、赤子の肩にかけてきた。
 「これは?」
 「一族の呪避けの布にございます、この結界はわずかながらですがカシバと同じ匂いたしますので。気休めにしかならないでしょうが。」

 「猪は殺しておかなくて良いんですか?」
 カズが誰へともなしに質問を投げかけた。
 「青服へ依頼した内容は”捕まえてほしい”とお願いしたはず。ここから先はわたくしたちが判断させていただきます。」
 男児が猪の頭上に一足飛びで乗り上がる。すると猪は呻き声をあげる。
 「あなた方は一体……。」
 カズがもっともな質問を近場にいる男児に投げかけた。それはそうだった、もともとこの仕事自体こいつらからの依頼だったがノリは半ばわざとカズには教えていなかったし。普通に暮らす人間も怪異もこいつらと出会うことはまずない。
 「割り込んできておいて名乗りがまだだったな。俺は三ツ彼岸が長男、明(アキラ)だ。あっちは俺の妹で長女の明(ハル)という。」
 ついでに猪の腕に巻き付いている鎖を外してかまわないという。

 「旅烏の家々の纏めをいたしております。三ツ彼岸家の者です。」

 そう説明しながらハルはゆっくりと猪に近づく。

「先代までで人屋の件が解決できなかったことは一族の恥。その赤子にもお詫びしなくてはならぬ程の事。その上で、人も獣もそうですが、猪が食い荒らした者の中にはわたくし達の眷属たちも含まれます。」
 野豚の様な絶叫をあげ、ハルを殴ろうと猪が拳を握った瞬間アキラが、猪の頭の上で片足を思いっきり踏みつけた。すると、その方向に沿って猪の身体が思いっきり裂けて赤黒いものが噴き出す。その衝撃で、利き腕の一本は肉半分で胴体にくっ付いている状態になり、胴体の肉団子からぶらん、とぶら下がった。
 「妹が話しているのだ、黙っていろ。」

 そんな流れをため息混じりでノリは任せることを決心した。
 「どちらにしろあの猪の処分は任せるよ、実際かたくて手が出せないし。で、人屋の方はどうするんだ。」
 既に人屋は顔から血の気が引ききって真っ青になったままだった。もう、逃げも隠れもできないと悟っているようだ。
 「人屋が使う呪術は人の身に余るモノだと先代から伺っています。おそらく呪力の大半は猪のものでしょう。」
 「俺の目にも猪と人屋が血と髪で繋がっているように視える。猪が消えれば呪力もクソもなくなるだろう。」

 人屋の身体の気のめぐり方が人間のそれとは違う。あの体の中で巡っているのは血ではなく、あの猪とこの結界と同じ気配だ。つまるところ猪も結界も無くなれば、人屋は死ぬ。

 「怪異の呪いで常人を超えた力を振るう者が元の怪異が絶たれれば残った命は長くないです、持って数カ月ではないかと。今まで貴方が殺してきたものへの贖罪とでも言いますか、そのぐらいの時間はございますでしょう。菊沼の寺で経の読み方を教わりなさい。」
 また猪が抵抗しようと動こうとするので、アキラは猪の頭の上で腕を払う。今度は地面につくわけでもない意味もなく尻から生えた後ろ脚がギリギリの所でつながったままちぎれた。猪はひたすら悲鳴を上げるが、やはり周囲の旅烏達は嘴を開くことさえしない。

 「そんな事よりお前らはさっさと親もとへ赤子を返せ。質の悪い結界に晒しておくものではない。」

 「兄上、そう四肢を散らしては刳る場所が無くなってしまいます。」 
 「そうだったな。諸兄ら、ながらく待たせた。存分に啄むといい。」

 祖先、友人、家族。自身の為に。

 号令を与えられてようやく旅烏達は飛び立つ。その合間も鳴きもしないのが本当に気色悪い。猪の周りを全羽ぶつかることなく旋回しだし黒い風のうずと化する。猪も残された破壊されなかった方の動かせる腕で払い、旅烏をつかもうとする。だがカラスたちはまるで黒い絵の具のように猪の腕を避けていく。爪、嘴が猪の表面の苔を抉っていく。
 「いくぞ、赤子を返すのが先だ。」
 「……はい。」
 ノリにはカズがぼんやりと視線を送っている先が猪、人屋どちらだったのかよくわからなかった。

 森の中の霧は殆ど無い。烏たちが結界を乗っ取っているようで、最初に来た時より呼吸が楽だ。そして、森を出ると病院の真ん前だった。二人共、唖然というか安心したのか少し呆気にとられていると思い出したように赤子が泣き出し病院から看護師姿の怪異がでてきた。常勤の青服で、この病院に勤めてるらしい。しかし今日は非番だったのだがのヨモヤマから「人屋が赤子をさらった、つれもどすので準備して欲しい」と連絡があったので慌てて出勤してきたという。
 「こ、このあああ赤い布はお預かりしていいんでしょうか?」
 赤子を受け取るなり赤い布に気づくと顔を青くして取り乱した。
 「まぁいいんじゃね?お守りとか言ってたし。」
 赤い布には三ツ彼岸家の金の刺繍が入っていて、それに驚いたようだった。心配なら青服のまとめ役に聞けとノリが返すと怪異の看護師とカズが不思議がった。なんで知らないんだとノリは続けた。
 「あのな。青服自体、大部分を旅烏が出資している。人間の税金で回すわけにいかないからな。」
 「え!?」
 「あー。」 
 青服でもないカズの方が納得していて不安になる。青服で今回の人屋の事件でみんなが手を出したくなかった理由は、どちらかといえば失敗した場合自身の立場がどうなるか解らなくて怖いからなのだとノリは思っていたが、青服でありながら自身の給料の出処を知らない怪異が「妖怪ヤクザ怖い」という単純な感情の方が大半だったらしくノリはため息を吐く隙もなく、クソデカ感情を胃に流しこんだ。

 赤子は結局大泣きしたが看護師によって病院内の元の場所に戻された。念のため健康診断もしたが問題なさそうでよかった。

 こうしてノリとカズの出会いがあった。

 伍、

 皐月にとってのいつものファミレスはカウンター席でさっさと日替わりランチを食べて帰る所だ。だが、その日もまたノリに呼ばれてボックス席に座ることになった。そして珍しく、皐月の周りに男性が三人も居ると厨房で騒ぎ始める。きっとまた怒られるまでそうするのだろう。
 皐月は窓際に滑りこむとその隣にカズが座った。その向かいの窓際にノリ。そして三ツ彼岸の当主である長男が座った。人屋の屋敷へ行って以来、一週間たった今日の姿は小学校高学年から高校生ぐらいにまで成長していてカズは一瞬誰だかわからなかったようだが気付いたようで会釈した。皐月は分かっているのか無視しているのか。マイペースだった。
 とりあえず、全員が座るまで立っているという、この中では一番の若者が紳士だった。
 「ファミレスは生まれて初めてなので作法に困る。ノリ、失礼にあたる事があれば教えて欲しい。」
言葉使いはあの時と同様高圧的だがそういう気遣いは本当に平平凡凡な俺らとは違うな。と思った。
 「まぁ、メニューを注文せず長居するのは駄目だろうな。定石としてはドリンクバーを人数分頼んで……飯も頼むか?」 
 皐月は同意の笑みを浮かべ、カズは変な顔をした。知っている、がめついとか思ったんだろ。

 だが、話の方が飯時にするものかどうか疑わしい。と当主様からでたのでドリンクバーで収まりそうだ。そんな話をファミレスでするのもどうかと思うが。

 連絡係のヨモヤマにあの赤布はどうしたらいいのか問い合わせると、こうして本家当主直々に会う大げさな事態になった。
 で赤布は赤子が大きくなるまで持っていた方がいいという事なった。三ツ彼岸家の跡継ぎや重要な立場の卵に被せる魔除けの布で相当強力な呪物。布自体は何枚か予備があり事務担当の妹君から「ご迷惑をおかけしたお詫びに差し上げます。もし不要になりましたら、こちらが受け取りに参らせていただきます」と破格の対応になった。ちなみに妹君は事務仕事で来れないそうだ。

 「結末から言おう。人屋は今朝亡くなった。」
 「まだ一月も経って無いですよ?」
 カズも驚いたようで声を少し荒げた。二人はじかに人屋と会い、おっさんと言った外見だったがそうすぐ死ぬ様な年齢でないことは知っている。

 「お前らが赤子を返しに行った後のことを話そう。」

 猪をあらかた食い尽くした旅烏達は乗っ取っていた猪の結界を処分するために、結界の基点になっているものを破壊して回っていた。その最中から人屋の体調がわるくなっていった。最初は気分的なものかと考え、ハルと共に結界の外で菊沼の迎えを待ってもらう事にしたが、その時には立てないほどになっていた。迎えの車が来たところで怪異を贔屓している病院へ搬送。次の日検査をしたところ内臓や四肢の一部が萎縮し始めていた。
 人屋から事情を聞き出す予定だったが呼吸もままならない状態では話すことは出来ない。だが意識はしっかりあったので意識の読める怪異を用意して尋問をしてもらった。

 人屋が幼い頃、両親が人間狩に出た後、交通事故にあって二人とも亡くなった。
 その時から人屋は猪に狩を命じられた。だが幼い身体では狩ができないことに気付いた猪は、妖術を使って人屋に大人としての身体を与えたと。

 「猪を殺したことで身体が維持できなくなったか。あわれだな。」

 皐月がそう口にしながらバツが悪そうに紅茶を飲む。その様をなんとなく三人とも呆然と見ていた。
 「二日前には意識不明からの心停止、回復の見込み無しということで、今朝の二度目の心停止で手を打つのを諦めたよ。」
 「一度は蘇生させたのか。」
 ノリは食い気味に尋ねた。
 「意識のほうだが何か言いかけてきたのでな。最後の方までは聞き取れきれなかったが、姉を供養してほしい。多分そういう望みだ。」

 人屋の遺品である衣類から「あね」という白い刺繍文字の入った黒いお守り袋が入っていた。中身は乳歯。気配から女児のものだと解った。

 両親が死ぬ直前のこと。品物を両親が間違えて納品してしまい一家もろとも猪に殺されそうになった。困り果てた両親は人屋の姉を差し出してしまったそうだ。だから姉はもういない、と。

 姉は両親の手伝いで解体器具の整備をしてはいたが、殺しもしたことないと必死に人屋は訴えてきた。
 「だから、せめて、ねぇちゃん、だけ」

 それが心臓の停止した人屋の残した、音にならなかった最後の言葉だった。

 「そういえば人屋さんたちの、お名前知らないですね。お姉さんを供養するにしても……」
 「人屋は代々名前を持たないそうだ。猪の家畜だからだろう。立場で呼び合うらしい、二番目の弟や母の兄だとか。」

 つくづくだなと思ったノリはアルコールのメニュー表を手にとった。が、十七時からの提供という文言があってどうにもならなくなり元に戻した。

途端に皐月の気配が淀んだ様に感じた。ノリは大昔にこういう事があった気がした。そして思い出した。

 「何を言いに来た。」

 皐月の怒気だ。

 「俺よりも遥かに人と付き合っている貴様らに言えたことではないが、釘を刺しに来た。一言で言えば、そうだ。」

 「俺達、三ツ彼岸を含めた旅烏としては人の世が崩れてもらっては困る。」
 「ノリは先日の捜査で暴力団事務所への放火。」
 皐月がノリを見る。そんな目で見るな、手加減したし。と視線で返した。

 「皐月は泥の獣をカシバから連れだした。」 
 ノリも旅烏もそこは知っていたのか。と無言で聞き流した。

 「カズ、お前の責任ではないとはいえ、お前が理由で一人死んだ。」
 「はい。」
 皐月の存在の歪みがます。ノリはどれだけ過保護なのかと内心つっこんだ。ただそう釘を刺されるほどのことをカズがどんな理由で何を行ったか知らないため黙ってアキラの話を聞くしかなかった。

 「繰り返すが釘を刺しに来た。二度と、同じ事はしてくれるなよ。お前らの存在を許し続けた先代の顔に泥を塗るようなことがあれば、その責任を取らせてもらう。」
 そう言い放ったアキラの存在感はその場にいた誰よりも重かった。アキラと対面してないノリはなんとか耐えられたが、カズはその視線に耐えられず俯いてしまった。皐月は流石というかここまで生き延びた獣らしい眼光をアキラに向けたまま動かなかった。よく見ればファミレスの窓から大柄なカラスが何羽かとまっているのがみえた。おそらく三ツ彼岸家の眷属や従者なのだろう。
 「……そうだな。覚えておこう。」
 皐月がそう言い終えてアキラは圧をかけてくるのをやめた。

 「暴力に訴える真似は避けたい。しかし、感情が理性を知性を押しのけた奴に対して言葉とは意味の無いモノだ。」
 「そのための妖怪ヤクザか?」
 皐月は鼻で笑いながら皮肉を吐いた。
 「いや。そのための青服だよ。お前らが正式に青服になってくれれば良かったんだがな。」
 「そう、だったら断り続けるよ。」
 軽口で罵った皐月だったが、アキラの告白にきょとんとし満面の笑顔でフッた。そしてそのまま腕を伸ばしメニュー表を取りアキラに差し出した。

 「人が成長し続けるかぎり、人は怪異の領域だったところに入り込むし。怪異もまた留まり続ける以上、人と交わっていくしかない。現し世はすで人の世と言っていい領域になった。そのためには互いになれるための規則が必要だ。」
  そう言いながら、アキラは手渡されたメニュー表を受け取った。
 「人が敷いた条件の元で怪異もある程度裁けるようにしたし、今後も強化していく。ウチ(三ツ彼岸家)はこのまま嫌われ続ける存在で居続ける。」 





 ***



 わたしね、自分のなまえをきめられるなら、
 あの小さいたくさん咲いてるる白い花の名前がいい。
 四枚の葉っぱをみつけられると運がいいんだって。
 名前なんていうのかな。