喜ばしい無茶

俳優、ミュージシャン、芸人、作家。すべて、成り難い仕事です。近年はSNSやネットのおかげで、かつてほどの成り難さはないかもしれませんが、それを生業にして生きていくという意味では、いまだに狭き門なのだろうと思います。スポーツ選手なんかも成り難い仕事ですが、この場合はかなり子供の頃から両親など大人の協力のもとやっていくものなので、少し毛色が違う気がします。一本独鈷で狭き門を潜り抜けた先にある仕事。先の四種の仕事は、きっといつまでも成り難い仕事の四天王であり続けるでしょう。

では、なぜこれからが成り難いのか? それは、成就するまでの過程に、才能と運という不確定要素が多分に含まれているからです。たとえどんなに努力して才能があっても、誰からも見出されなければそれまでですし、運があっても努力もせず才能がなければそれまでです。仕事にはなりません。奇跡的にそれら二つが、絶妙のタイミングで成り立った時、はじめて狭き門の重い扉が少しだけ開くのです。そこに手をかけ、渾身の力でこじ開け、やっと人一人通れるくらいの隙間を作って身体を捩じ込むと、その先に新たな風景が広がっています。成り難いものになるのは、そのくらい困難なことだと僕は思っています。

才能があるとかないとか、僕ら凡人はよく考えがちです。自分が何もしてこなかったことを棚に上げて、不断の努力をしてその地位を築いた人を評するときに、『あいつ、才能もないのに』とか、『いいよねぇ、才能あるから』と、心無い揶揄をします。いやいや、努力するそのことこそが才能の本質だろ? 愚直に、まわりから何を言われてもそこに固執し続けられる精神の有り様こそが才能ということだろ? そんな言葉を聞いたり、不用意に自分で考えてしまった時に僕はそう自戒します。扉の前で、どうせ開かないと決めてかかって諦めた僕らには、実際のところ、彼らを批判する言葉など一つもないのです。

一昨日、お客さんがプロデュースをしている芝居を観てきました。池袋の小さな小屋でやっている芝居でした。出演者が若い人の割に客層が年代性別関係ないのが印象的でした。とにかく満席でした。大したものです。そのせまい舞台で、愚直に狭き門に手をかけ、なんとかその向こう側に行こうと懸命になっている若い才能がひしめき合っていました。それは、いつの時代も変わらない美しい風景です。我々凡人は、夢だのなんだのとクソの役にも立たない言葉で彼らを評しがちですが、彼らにとって扉に手をかけている今は、夢でもなんでもなく現実そのものなのです。そんな喜ばしい無茶を実践して、きちんと『仕事』として観客を喜ばせようと必死になっている姿を観て、音楽酒場を経営して、恥ずかしながらエンターテイメントの末席にいる五十路のおじさんは心を新たにし、池袋駅まで歩いたのでした。

とにかく、本当に面白かったよ。イチバンガラスのみんなありがとう。

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