吉田拓郎について考える

僕は1971年生まれの52歳なので、この方の全盛期にはまったく間に合っていません。生まれた頃から5歳くらいまでが彼の全盛期なので、さすがに知識はすべて後付けですし、思い入れも世代の方に比べればまったくありません。物心がついた時にはフォーライフレコードの社長として経営者になっていたのが最大の原因だと思いますが、もはや過去の人のイメージが強く、同時代のもう一人のヒーロー井上陽水さんに比べて現役感は少なかった印象です。吉田拓郎の本当の凄さを理解したのは、それこそ30代後半になって今の仕事を始めた頃でした。 


そのころ僕は、今でもある神田の『フォーク酒場 昭和』に勤めていました。今から十数年前は、いわゆる『拓郎世代』の方々もまだまだ現役で、毎日何曲か彼の作品を演奏したり、お客さんの歌を聴いたりしていました。『今日までそして明日から』『春だったね』『結婚しようよ』『マークII』『流星』。綺羅星のごとくある名曲を聴くにつれて、僕はあることに気がつきました。『拓郎って、フォークじゃないじゃん』。そう。吉田拓郎という人は、じつはフォークの破壊者だったのです。

アコースティックギターを持つのがフォーク。エレキギターを持つのがロック。70年代の一般的な認知度は多分こんな感じだったと思います。ずいぶん乱暴な分け方ですが、アメリカでもボブ ディランがエレキギターを持っただけで大論争になったりしたので、本当にそんな認識が一般的だったのだと思います。拓郎さんは、僕の知る限りけっこう早い段階からエレキギターを持っていたと思います。ダンガリーシャツにベルボトムのジーンズを履いて、おかっぱみたいな長髪でエレキギターを抱えて歌う拓郎さんのルックスが、どれだけ当時の若い男の子に影響を与えたかは計り知れません。それまでの、反戦歌や社会問題を歌うフォークシンガーの持つ暗く重いルックスに比べて、あまりにもポップで格好良かったのだと思います。その辺も、彼がフォークの破壊者である理由の一つです。

歌詞の面では、拓郎さんの歌は圧倒的に一人称です。『僕ら』ではなく『僕』。『君たち』ではなく『君』。社会変革を望んだフォークシンガーが、『私たち』や『僕ら』とみんなに語りかけても変革しなかった社会は、吉田拓郎という若い男が歌う一人称の個人的な話が社会現象となることで、すべて駆逐されてしまいました。彼女と僕がどこかに旅に出て、夕食の席でのやり取りや、その時の自分の心情をただ書き連ねた『旅の宿』なんかは、それこそ側から見ればどうでもいいことなのですが、よっぽど社会に与えた影響が強かったのです。


アイドルや歌手への曲提供。野外での大掛かりなフェス。ラジオパーソナリティ。アーティスト自らによる音楽出版権の管理。今では当たり前になったこれらのことは、すべて拓郎さんから始まったことです。自分の意思でメディアに出て発言する権利を、若いアーティスト自らが持つ。当時の音楽出版界のおじさんたちには、さぞ生意気に映ったことでしょう。でも、それらを拓郎さんはやってのけました。同世代から下の若い人たちは、そんなジジイたちの鼻を明かす彼の軽やかな一挙手一投足が、それこそ痛快だったはずです。

中年を過ぎてからの拓郎さんは、テレビでバラエティのレギュラー番組を持ったりして、なんか余裕があるおじさんになっていました。若い人たちに囲まれて、威張りながらも弄られて楽しそうにしている様をはじめて見た時はびっくりしましたが、その前の世代のおじさんたちにある変な権威主義みたいなものがなくて少しホッとしたのを憶えています。なんだかんだ、軽やかなまんま歳を重ねた結果なのでしょう。多分、当時若者で拓郎さんに熱狂した人たちも、僕と同じような印象だったのではないかと思います。


そんな拓郎さんも、昨年現役引退してしまいました。何度もの癌闘病でやつれた最後の姿は、長い間数多の敵と戦って疲れ果てた老兵の趣きがありましたが、へんに湿っぽくならない新しいおじいさんの姿がそこにありました。やはり軽やかで辛辣で、かっこよかったです。後追いで好きになった僕は、そこまで強く影響は受けていませんが、拓郎さんフォロアーの桑田さんや長渕さんの影響を若い頃にたくさん受けてきた身としては感慨深いものがありました。おつかれさまでした。ありがとうございました。

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