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川村湊 『架橋としての文学──日本・朝鮮文学の交叉路』 より、「序章 架橋としての文学」 全文掲載!

日本でも、韓国ドラマやポップスのみならず、同時代小説の翻訳がたくさんの読者に受け入れられるようになった現代。2022年に刊行された斎藤真理子さんの『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス)がよく読まれているように、現代史の文脈のなかで隣国の最先端の文学を理解し、そこに学ぼうとする人々が日本の一般の読者層に広がっていることは、文化的にとても新しく、歓迎すべき現象です。

ここにいたる韓国・朝鮮文学の受容の歴史には、一般にはあまり知られていませんが、きわめて複雑かつ困難な、長い道のりがありました。日本帝国主義による植民地支配期から、戦後の朝鮮半島の解放と今につづく分断、民族的な〈在日〉文学の展開と成熟をへて、その(カッコ付きの)「終焉」と新たな作家たちの登場……。戦争とコロニアリズムの暴力、はてしない難民化・ディアスポラ化の悲劇がいまだにリアルタイムで進行しているいま、朝鮮・在日文学の100年の歴史から日本の読者が学び直せることがどれほど多いことか、計り知れないほどです。

批評家の川村湊氏ほど、長年にわたってその歴史を俯瞰的に眺めるとともに、たくさんの作家とつきあい、書き続けてきた人物はほとんどいません。いまだ軍事独裁政権下にあった1982年の韓国に渡って以降、おびただしい数の関連著作を発表してきました。その歩みのエッセンスは、雑誌『対抗言論 3号』に収録された2つの座談会(「【勉強会】川村湊の批評地図を描く──『架橋としての文学』刊行を機に」および「【インタビュー】東アジアと文学の未来のために──川村湊氏に聞く」 https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-61613-6.html )をお読みいただくのが、初学者には入りやすいでしょう。

本書『架橋としての文学』(2022年)は、これまで著者が朝鮮・在日文学について書いてきた主題をあらためて取り上げ直し、新しく1冊にまとめた著作です。大変な情報量を含むため、通読するのはなかなか骨が折れるはず。でも、この歴史の容赦ない厚みに触れてこそ、20世紀を生きてきた両国の人々、アジアの庶民たちの経験、後世に何かを伝えようとした作家や詩人たちの声をなんとか、私たちは聴き取ることができるのではないでしょうか?

著者の許可を得て、「序章」の全文を公開いたします!

「40年以上にわたって韓国・朝鮮と深く関わり、朝鮮文学や在日文学の批評家としても第一線を歩き続けてきた著者による集大成。植民地支配と差別、〈親日〉の汚名や屈従を強いられた朝鮮の文学者たち(李光洙、張赫宙、李箱ほか多数)の生と、その歴史に並走してきた日本の作家や知識人らの理解・無理解・葛藤の記憶を、現在の新しい読者に向けて語り直す。文学だけが架けられる橋とは何か?」


1 “他者”としての朝鮮

 私がはじめて“他者の文学”に出会ったのは、釜山にある東亜大学校の図書館の片隅だった。妻と、幼な子二人の家族とともに、ほとんど着の身着のまま、日本語講師として釜山に赴任した私は、日本語の活字に飢えていた(周りはハングルの森だった)。そのため図書館で「日帝時代(イルチェシデ)」(1910年から1945年の、日本が朝鮮を植民地支配していた時代。日本強占期ともいう)の古い日本語の書物を探していたのである。『文章』とか『三千里』とか『人文評論』といった、古い雑誌があった。それのなかにはハングルと日本語の両方のページがあるものがあった。また、「京城府」で出版された「牧洋」の『静かな嵐』という小説の単行本があった。「牧洋」というのが、朝鮮人作家・李石薫(イソクフン)(1907〜50)の「創氏改名」の名前であることを、私はその後に知ることになる。金鍾漢(キムジョンハン)(1914〜44)という詩人は、日本語で詩を書いていた。日帝時代の末期、彼らは「親日文学者」とよばれ、“(朝鮮)民族の裏切り者”として糾弾される対象としてあった。当時、一種のタブーとしてあった「親日文学」。私はその「日本(語)文学」とも「朝鮮文学」とも定義することのできない文学テキストを読みながら、それが私にとってまさに“他者”であり、“他者”であり続ける文学だと思わざるをえなかったのである。

 朝鮮文学は、私にとってはもとより「外国文学」だった。隣国の「外国語」による「外国人」の文学。だが、その後、朝鮮の近代文学史を少し学ぶうちに、私はそれが日本の近代文学と深い関わりを持つことを知ることになった。朝鮮近代文学の“父祖”といわれる李光洙(イグァンス)(1892〜1950)は、その最初の作品「愛か」を日本語で書き、日本で発表した。また彼は「香山光郎」という創氏名で、日本の植民地主義、皇国主義、軍国主義を鼓吹し、追従し、称賛する言動を行った。「最大の親日派」と呼ばれる由縁である。この時、日本文学と朝鮮文学は、ある意味では“共犯関係”にあるのであって、それを「外国文学」の問題として等閑視するわけにはゆかないことに思い至った。

 もちろん、「親日文学」は、私にとって、内容的にも思想的にも、共感できるものでも、共鳴できるものでもなかった。だが、それが日本語の文学テキストとして書かれている以上、それを無視することは日本語文学の批評家としての私にはできないと思った。日本文学は私にとって“身内”のもので、朝鮮文学は“他人”のものだ。だが、「親日文学」は、“他者”として、つまり、「私」と真正面に向き合い、「私」というものの鏡像として、自分を客観的に観察するための媒介項として存在すると思われた。自分を“他者”に反映させて見ないことには、自分を知ることはできない。それは日本近代文学の“歪んだ自画像”として在る。「他人」として切り離すこともできず、“身内”として自分のなかに抱え込むこともできない“他者”の存在。“私──他者”の関わりこそ、私が見つけた、異様な日本語文学のテキスト──「親日(派)(チニルパ)文学」、あるいは「親日文学」と呼ばれるものだったのである。

 私のこうした考えには、二つの文章からの影響がある。一つは、鶴見俊輔(1922〜2015)の「朝鮮人の登場する小説」であり、もう一つは金允植(キムユンシク)(1936〜2018)の『韓日文学の関連様相』(一志社[ソウル]、1974年【註1】)である。

 鶴見俊輔は、「準拠集団」ということをいい、「ある個人あるいは集団が、自己の状況を評価するさいに、その比較の相手方として用いる集団のことである」といっている。私は、朝鮮文学の中──とりわけ親日文学──に“自己の状況を評価する相手方”を見つけ出し、自分がそのような場合だったら──強制的に外国語による創作活動を強いられたら──どうする(できる)だろうかと顧みざるをえなかった。親日文学が、「私」とは無関係な「他人」ではなく、“他者”であるというのは、そういう意味だ。

 鶴見俊輔は、日本人の書いた小説のなかで朝鮮人が登場する作品を博捜し、小説のなかの朝鮮人が日本人を相対化する視点を見出し、金允植は、田中英光や金史良の作品世界における朝鮮と日本の関わりや絡み合いを、インターテクスチュアルに浮かび上がらせてみせた。

 これまで日本近代文学は、一般的には西欧人を「準拠集団」として、その社会や個人の在り方を自己の在り方の基準、準拠としてきた。しかし、西欧人は、本質的に「他人─外国人」だった。他者として、「私(日本人)」の比較対象となるべきなのは、まずはむしろ朝鮮人であり、中国人など東アジアの人々であるべきではないか。

 鶴見俊輔や金允植は、朝鮮人や朝鮮社会を一種の範型として、日本人や日本社会を振り返るという観方を教えてくれた。朝鮮と日本が抜き差しならない隣人関係であることは──昔の朝鮮通信使の時代から──明白なことだった。だからこそ、“兄弟(けいてい)、墻(かき)にせめぐ”ような諍いが、この隣国同士でしばしば引き起こされた。しかし、そのたびにその関係を修復し、復興させるものは、やはり「文化」の交流の力だった。古来、朝鮮半島からは仏像や仏画、高麗楽や百済戯、陶磁器や印刷物が到来した【註2】。近代には、学問、芸術、法制度、教育制度、そして「近代文学」が、日本を経由して朝鮮半島に流入した。現代では小説、音楽、演劇、映画、TVドラマなどのエンターテインメントは、まさに活発に半島と列島の間を往復し、朝鮮と日本の両岸を架橋している【註3】。

 朝鮮文学にとって、日本文学こそ「準拠集団」の最たるものだろう。とりわけ、「近代文学」は、林和(イムファ)(1908〜53)が朝鮮文学は「移植文学」であると語ったように、その思想的な背景、文体、表現方法などのほとんどすべてが、明治以降の日本の「近代文学」の運動とその成果を朝鮮の地に“移植”したものだった(これは、古代に倭国が、先進国であった朝鮮半島(百済(くだら)(ペクチェ)・新羅(しらぎ)(シルラ)・高句麗(こうくり)(コグリョ)から万葉集や古事記、日本書紀、風土記などに用いる文字や文章、そして文学の“輸入”を得たことと対照的だ)。

 ただ、これを朝鮮側の一方的な“輸入超過”と考えることは、表層的に過ぎる(古代における倭国側の“輸入超過”も)。朝鮮の文学者は、日本の文学者との“合わせ鏡”の幻像であって、お互いにその姿を自分の写し鏡に反映させながら、「近代文学・現代文学」というものを構築していったのではないか。

 もちろん、日本の側の文学者にそうした意識があまり鮮明でなかったことは確かである。鶴見俊輔の「朝鮮人の登場する小説」や、朴春日(パクチュニル)(1933〜)の『近代日本文学における朝鮮像』や、磯貝治良(1937〜)の『戦後日本文学のなかの朝鮮韓国』には、日本人文学者(および在日コリアン文学者)が書いた「朝鮮・韓国人」や「朝鮮・韓国像」が多数挙げられているが、真の意味で、隣国人や隣国社会を正面のテーマに据えて書かれた文学テキストは、そう多くはない。それに引き換え、朝鮮文学では、「親日的」であれ、「反日的・抗日的」であれ、日本文学を範型にし、モデルとした作品は少なくない。古くは『金色夜叉』と『長恨夢(チャンハンモン)』の例があり、“村上春樹世代”の、韓国の若い世代の作家たちがそうである。だが、そうした非対称性は、表面的なものにとどまるのであって、本質的に「日本」は、「朝鮮半島」を歴史的にも、政治的にも、常に自らの行く先の参照例として注視してこざるをえなかったのである。「蒙古(高麗)襲来」、「壬申倭乱(イムジンウェラン)」、「征韓論」、「日清・日露戦争」、「韓国併合」、「三一運動(サミルウンドン)」、「朝鮮戦争」など、古代から中世、中世から近世、近世から近代、近代から現代への変遷という、日本史の劃期となり、節目となる時代の変化は、朝鮮絡みの社会変動を契機としている【註4】。それは単なる時代の転換というだけではなく、世相の変化を伴い、その後の日本人の生活全般、社会全体が大きく変化してゆく転機となった。言語、衣・食・住の生活文化、風俗や食生活まで、それは根源的、根本的な変化を蒙ったのである。

2 「親日文学」と「転向文学」

 朝鮮での「親日文学」の猖獗と呼応して、日本文学で流行したのが、社会主義・ 共産主義思想からの「転向文学」だった。明治期の自由民権運動から、大正デモクラシーの時期を経て、日本の若い文学世代には、プロレタリア文学を主流とする社会主義・共産主義への傾倒が顕在化した。芥川龍之介(1892〜1927)のような近代文学作家が、「ぼんやりとした不安」を口にして自殺したことが象徴しているように、時代は左傾すると同時に、その反動としての日本の軍国主義、皇国主義、帝国主義への雪崩を打つような右傾化も、また顕在化するようになる。左翼勢力への圧迫は、プロレタリア文学の驍将・小林多喜二(1903〜33)を特高警察が虐殺するのを契機に、過酷、苛烈を極め、“転向作家”は続出し、「転向文学」の時代が押し寄せることになったのだ。太宰治(1909〜48)、高見順(1907〜65)、中野重治(1902〜79)、林房雄(1903〜75)、島木健作(1903〜45)、葉山嘉樹(1894〜1945)、佐多稲子(1904〜98)などの文学者が、次々とその左翼イデオロギーの放棄を表明し、日本の軍国主義・皇国主義の体勢に屈していかざるをえなかったのである。

 日本帝国主義によって植民地化された朝鮮半島にとっても、右翼化、反動的な軍国・皇国主義は高まり、「親日文学」の運動が高揚していったことは、歴史に徴して明らかである。つまり、朝鮮における「親日文学」は、日本における「転向文学」と対になる動きであって、金龍済(キムヨンジェ)(1909〜94)や林和のように、その双方に足を掛ける文学者の存在も見られた【註5】。

 「転向文学」は、日本の近代史の一時期だけに見られる現象ではない。先にあげた“転向作家”の例でもわかるように、彼らは日本の軍国主義・皇国主義の敗北後、再転向を繰り返したり、「偽装転向」を表明したり、転向したことを隠蔽したまま解放後も生き抜こうとしていた。“親日作家”たちが、朝鮮半島の解放後に、文学者としてはほとんど生き抜くことができなかったことと、それは対照的なのである。

 私が、「親日文学」を“他者の文学”とするのは、こうした理由である。つまり、精神の「転向」ということはいつの時代にもあり、戦後においても、朝鮮戦争の勃発によって、経済の高度成長のきっかけを摑んだ日本社会が、ひたすら高度成長経済に邁進することによって、いわゆる戦後民主主義は形骸化し、学生・市民運動としての「六〇年安保」や「全共闘運動」が熾烈化し、そして衰滅化してゆく過程は、多くの“転向者”を生み出していった。強制力によって、人の考えや思想を変え、それを承服させる。思考や思想の自由を奪い、自立した発想や自由な連想を縛り上げる。それは自分にとって、“心にもない”言葉を口にし表現することによって、そうした言葉、表現に拘束され、しばしば自分の考えや思いを裏切るような事態となってしまうことを意味している。それが、「親日文学」であり、「転向文学」なのである。

 村上春樹(1949〜)の代表作、『ノルウェイの森』が、韓国では「喪失の時代」(ユ・ユジョン訳、文学思想社[ソウル])という題名で翻訳され、ベストセラー、ロングセラーとなったのは、1990年代のことだった。それは村上春樹のこの小説が、現代の「転向小説」として読まれたことを意味している。大学紛争に至る前に、はやばやと死んでしまった若者たちを追憶するこの小説は、信じられたイデオロギーがもはや信じられなくなった、「私」の崩壊、喪失の時代を象徴するものであって──太宰治の文学のように──、それによって村上春樹は、日本の(アジア太平洋戦争の)敗戦後に生まれた世代の代表的な文学者となったのである。それは、私にとって、“身内”でもなく(私は村上春樹の文学に一点の疑問を持たざるをえない)、“他人”でもなく(私は彼の文学に無関心ではいられない)、“他者の文学”として遇さざるをえないものである。

 現在にあてはめてみよう。チョ・ナムジュ(1979〜)の『82年生まれ、キム・ジヨン』(斎藤真理子訳、筑摩書房、2018年)という韓国小説が、現在日本でもベストセラーとなっている。これはきわめて珍しい現象だ。日・韓の文学交流の歴史は、それなりに長期間にわたっているが、これまで韓国文学が日本語に翻訳され、それが日本の読者に広く受け入れられるということは、まったくといっていいほど、なかった(政治的な絡みもあって、キム・ジハ(金芝河)の詩集がいくらか売れたことはあったが)。政治絡みでもなく、在日関係でもなく、純粋に文学として日本の読者に迎えられたのは、この『82年生まれ、キム・ジヨン』が初めてだろう。1982年生まれだから、主人公のキム・ジヨンは、2020年代初めの現在では30年代前半の妻でもあり、母でもある女性である。ごく一般的な韓国女性といっていいだろう。こうした女性を主人公とした小説が、どうして日本の読者に受けたのか(同年齢層の女性が主な読者だといわれる)。それは私にいわせると、読者の「私」には、自分と比較の対象として見られる“他者”としてキム・ジヨンが存在しているからだ。

 同世代の女性であっても、日本人の読者にとって彼女は外国人であり、一般的にはこれからも何の関わりを持ちそうもない“他人”だ。李良枝(イヤンジ)(1955〜92)の書いた由煕(ユヒ)の【註6】ように、韓国に“帰って”“身内”のようなオンニ(お姉さん)に出会うということはありうる。しかし、それは由煕が在日コリアンだからだ。ジヨンが“他者”であるのは、彼女を“準拠”として、「私」のなかに彼女を見出しているからだ。

 もちろん、ジヨンに全面的に自己移入している傾きもあるが、それも実は自己を“他者”として客観視する契機となっているのだ。つまり、彼女たち(日本の読者)は、韓国の平凡な登場人物の女性に、身内でも、まったくの他人でもない、“我が身を振り返させる”客観的な「他者」を見出したのである。

 これは“キム・ジヨン”に限ったことではない。たとえば、ハン・ガン(漢江、1970〜)の『菜食主義者』(きむふな訳、クオン、2011年)は、韓国の若い世代の女性小説家を日本に紹介する牽引車となった作品だが、そこに登場する韓国の平凡な女性のヨンへは、ある日から肉食を絶ち、“菜食主義者”となる。牛肉や牛骨、牛のしっぽ(ソッコリ)や、牛の血(ソンジ)まで食材とする韓国料理で、肉食を拒否することは、家庭内外での調理や食卓の団欒を拒絶する、主婦としての(嫁としての、妻としての、母としての)家事放棄に等しい。とりわけ、先祖の法事(祭祀(チェサ))を執り行う長男(「家」の相続者)の嫁の場合には、祭壇には必ず肉料理が供えられ、直会の席でも肉料理は欠かせない。つまり、肉食を拒否することは、韓国の女性としての伝統的な役割、ジェンダーの特性や、文化的属性をすべて投げ出すことと同義なのだ。

 摂食というきわめて個人的な行為も、社会的、伝統的、文化的しがらみの中でがんじがらめに縛られている。ヨンへはそれに抵抗するのだが、結果はただ個人的に身体的な衰弱を招き寄せるだけだ。韓国のフェミニズムは、女性たちの精神だけではなく、身体をも拘束している、ソフトな“鉄の処女”のような拘束衣を明示してみせた。そして、そうしたキム・ジヨンやヨンへの纏っている衣装は、日本の女性たちも共有している。つまり、日本の女性にとって、韓国のそうした世代の女性は、“他者”でありながら自分であり、自画像でありながら“他者”として、自らの身体のあり方や心の中を顧みさせるものにほかならないからだ。

 昔から今に至るまで、朝鮮と日本の間で根強く共通しているのは、女性(特に、若い世代の)の“生き難さ”だ。「私」が「私」であることが、外的な状況によって阻害される。キム・ジヨンやヨンへは、「ジヨン」や「ヨンへ」という個人ではなく、両親にとって娘、きょうだいにとって姉や妹、夫にとって妻であり、娘や息子にとって母である。これは、朝鮮に限らず日本においてもほぼ同様の“女性”の立場だ(それは封建制度下の理想的な女性像、孝女と貞女の理想タイプを描いた、パンソリ辞説(サソル)の『春香伝(チュニャンジョン)』や『沈清伝(シムチョンジョン)』の昔から連綿として続いている)。

 だから、ジヨンは「私」という一つの統一された人格ではなく、母や祖母に憑依するような“多重人格”となってしまわざるをえない。多くの女の運命がジヨンの一身に“重ね”合わされているからだ(それはまるで、『怪談累ヶ淵』の「累」の運命のようだ)。「私」と“他者”の境界の輪郭が曖昧となり、不確かになって、統合失調症的な病にジヨンは苦しまなければならない。彼女がそのような、分裂した自己という病から回復の兆しを見せるのは、主人公の「私」が“キム・ジヨン”という固有名を持つ個人であることをはっきりと表現することができたからだ。外界からの圧力や強制力によって「私」の本質的な在り方が横領され、簒奪され、アイデンティティから疎外されることが、「親日文学」や「転向文学」の共通した要素だ。

 「男」にとって、「女」は向き合うべき「他者」だ(トランスジェンダーなどの場合はさらに複雑なものとなるが)。日本(人、文化)にとって、朝鮮(人、文化)がそうであるように。そうした距離や乖離のあることの自覚から始めなければならない。

 「私」と「他者」との客観的な間合いや距離を取ることが、「私」をしっかりと保持することにつながる。「私」と「他者」とを架橋することは、そのまま国家間の関係にスライドさせることができる。つまり、朝鮮(韓国)と日本の乖離や懸隔を架橋することと同義的と考えられるのだ。そして、互いの文学の交流が、その役割を果たすことができると、私は信じる。朝鮮文学と日本文学のなかに、互いの“他者”を見出し、それを自分(=私)の客観的な肖像として見直すこと。これが本書の出発点であり、結論なのである【註7】。

 ここで一言、注記しておきたいのは、私がここで論じた「他者」は、ノーベル文学賞を受賞したトニ・モリスン(1931〜2019)が『「他者」の起源──ノーベル賞作家のハーバード連続公演講演録』(荒このみ訳、集英社新書、2019年)で語った「他者(Others)」とは背馳するものであることだ。そこでは「科学的人種主義の目的の一つは、「よそ者」を定義することによって自分自身を定義すること。さらに、「他者化されたもの」として分類された差異に対して、何ら不面目を感じることもなく、自己の差異を維持(享受さえ)することである」と述べられている。「よそ者」「他者化」という言葉から分かるように、この場合の「他者」は、人種差別主義、レイシズム、ヘイト運動に見られるような、「自分(たち)」以外の人間をカテゴリーとして差別し、区別するための理由の原拠にあたるもので、差別や排除、攻撃や追放や(時には)絶滅・殲滅の対象とするものである。それは同書で解説の森本あんり(1956〜)が記している「他者化とは、他者をその総体において、つまり自分の認識能力を凌駕する何らかの名付けがたい他者であるままにその存在を承認する、ということではな」く(引用者註──ここで言う「他者」の方が、私のいっている「他者」に近い)、私の言い方では、「他者」というより「他人(よそ者)」というべき、冷たく否定的な意味を持つものだ。「他者は地獄だ」というサルトル(1905〜80)の戯曲の言葉から発する、植民地帝国主義による「他者性」「他者化」であって、自己を再定義し、自己省察するための単なるよすがとしての、認識すべき「他人」の意味合いに近い。「他者」という言い方にはそうした両義性が備わっていることを予め断っておく。

【1】 日本語訳が、大村益夫訳『傷痕と克服──韓国の文学者と日本』(朝日新聞社、1975年)として出版されている。ただし、韓国語版の全訳ではない。本書では主に、この日本語訳と解説を参照した。

【2】 もちろん、文化の流入、移動は人の移動を伴っている。唐津焼、伊万里焼、薩摩焼などの陶磁器文化の日本での展開には、朝鮮の陶工を徴発、拉致するなどの非人道的な手段によるものも少なくなく、書籍、彫刻・絵画などの美術品も略奪、強奪、詐取によるものもある(司馬遼太郎『故郷忘じがたく候』参照)。ただし、江戸時代の朝鮮通信使の場合のように、平和裡に行われた文化交流が盛んな時期もあった。

【3】 オリンピックやスポーツ競技の国際試合や文化イベントの開催に合わせて、日韓の文化交流が“ブーム”的に、間歇的に盛り上がることはあった。直近のそれは“韓流”ブームと呼ばれた。

【4】 島尾敏雄(1917〜86)は、日本の国家が大きく変動する時代には、列島の“南”の方から変化が起こると指摘している。黒船来航や廃藩置県、沖縄決戦や反米軍基地闘争などが思い浮かべられる。それよりも、日本人、日本文化が変化する時は、朝鮮半島との関わりが非常に重大である。日朝関係史が日本史の重要なファクターとならなければならない。

【5】 カップ(KAPF)に集まった多くの朝鮮人文学者は、日帝時代の総督府政治からの弾圧によって「転向」を強いられた。金基鎭(キムギジン)(八峰(パルボン))(1903〜85)や金龍済などである(第10章参照)。彼らの一部は過剰な皇国主義、軍国主義を標榜する「親日文学」の主唱者となり、日鮮同祖論に基づく朝鮮民族の民族的解消論を唱えた。

【6】 「由煕」は、李良枝(イヤンジ)の芥川賞受賞作『由煕』(講談社、1989年)の主人公。在日コリアンの彼女は、韓国に留学に行き、「オンニ(お姉さん)」と呼ぶことになる韓国人女性と親しくなる。「オンニ언니」は、妹の立場から姉を呼ぶ言い方で、弟の場合は普通「ヌナ누나(ヌニム)」となる。これは男性が年上の女性を呼ぶ言い方である。朝鮮社会では、友人同士はしばしば擬似兄弟(義兄弟)や擬似家族の関係となる。

【7】 こうした日本と朝鮮との文学(史)的関わりを金允植は「関連様相관련양상」という用語で表わし、ナヨン・エィミー・クォンは「接触領域(コンタクト・ゾーン)」として捉えた。私が「交叉路」と比喩的に呼ぶものはそれらの概念に近く、テーマや表現の異同や差違、影響や模倣関係などを考究する、比較文学的な分野にとどまるものではない。

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