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長き夜の果てに




三つの、新しい出会いがあった。

永年憧れていた楽曲と楽器、そして新しい演奏家だ。




人生を共に過ごしていきたい曲、というものがある。

喜びの時、悲しみの時、

その時々の気持ちに応じ、励まし、慰めてくれる。

ありのままの自分を受け入れ浄化してくれる、

まるで心地良い自然の情景のような存在。

バッハの「ゴルトベルク変奏曲」は、

私にとって、間違いなくそうした音楽だ。


バッハはこの曲を、不眠症に悩む伯爵から、

眠れぬ夜のために穏やかで

しかも気分をいくらかでも引き立たせるようなものを、

という注文を受けて書いた、という逸話が残されている。

そもそもが、長く暗い夜に寄り添うために

天才であるバッハが書き上げた曲であり、

18世紀の貴族から、21世紀の庶民である私にまで

柔らかで暖かな光を当て続けてくれている。


変奏曲集は32の曲からなる。

1曲目のアリアを基本として、

30の変奏が展開され、

最後の32曲目は、最初の曲と全く同じアリアが奏でられるという

独特の構造をしている。


私は、音楽はまずはあまり深く考えずに

虚心坦懐に聞くのが良いと考えている。

文章が明確な意味を持つ単語をベースに展開されるのと違い、

旋律が表さんとすることは曖昧模糊としており、

その解釈の自由度こそが音楽の醍醐味だと信じているからだ。

だから、他人の解釈を聞いた上で曲を聞くと

先入観が邪魔をしてしまい、

自分ならではの受け取り方ができなくなってしまう。

つまり、その曲を完全に自分のものとすることができない。

しかし、ことゴルトベルグに関しては、

何十回、何百回と聴く内に、

曲の背後に隠されたバッハの意図について

より深く知りたいと思うようになっていった。


先日、ようやくその願いが叶った。

ゴルトベルグ変奏曲をライフワークとするピアニスト・髙橋望氏が、

年に一度の全曲演奏会を前に、

勉強会を行うというのだ。

猟期の只中であり、週末は基本的に

狩猟にスケジュールを割り当てていた私だが、

講座と演奏会、両方への参加を即決した。




1月14日。

心して勉強会の会場に行くと、

受付をしていらっしゃったのはなんとご本人で

明るくお声を掛けていただいた。

あまりの気取らなさというか、呆気なさに

私はいきなり面食らった。


講義は、説明のための部分的な演奏を交えながら行われた。

お人柄の通りの、丁寧で平易に行われる解説もさることながら、

その解釈は、先人達の研究資料だけでなく、

髙橋氏自身の個人的な実体験にも裏付けされており、

ぐいぐい引き込まれていった。


例えば、この曲に感じる不思議な懐かしさを紐解く時。

髙橋氏は自分が子供の頃、

下校するときに流れていたという唱歌を引き合いに出した。

日本人なら誰もが知っている、郷愁に満ちたそのメロディーを

実際に歌いながらゴルトベルグを弾き始める。

すると不思議なことに、二つの曲は時空を越え、見事な調和を見せる。

はるか昔に異国の天才が産み出した名曲。

その向こうに透けて見える風景が、

重厚な石造りのカテドラルから

カタカタとランドセルを揺らしながら夕焼け道を歩く子供たちへと

姿を変えてしまうのだ。

文献からでは決して得られない、

心での学びが、そこにはあった。


私も多少は予習しており、

変奏がメロディに対してではなく、

シンプルな通奏低音をベースに行われていることや、

キリスト教の三位一体を象徴する、3という数字に重きが置かれ、

変奏部は3曲毎にカノン(輪唱のような旋律の追いかけっこ)となっている、

というあたりまでは一応知っていた。

しかし、前半の最後、15個目の変奏で初めて出てくる

短調のカノンをキリストの死と捉え、

全体の折り返し地点である16曲目の変奏に序曲が挿入され、

仕切り直しが図られていることなどは今回初めて知った。


そして最後の変奏曲だけは、

カノンでなくクオドリベットという聞き慣れない形式。

これは当時行われていた

別々の歌を同時に歌って楽しむという「重ね歌遊び」という意味で、

ゴルトベルクの場合は、二つの民謡が題材となっているそうだ。

その内の一つの歌詞は

「長い間会わなかったな、さあおいで!」というもの。

その言葉に導かれるように登場するのは、アリア。

冒頭でお披露目されて以来、

目まぐるしいパッセージや煌びやかなトリルの影に身を潜めていた

天上の音楽とも思われる麗しき旋律が、再び降臨する。


参った。

話を聞いているだけで、感動してしまうではないか。




そしてこの日、もう一つの嬉しいが出会いあった。

髙橋氏が演奏していたピアノだ。

それは、私が子供の頃から憧れているものだった。


実は我が家にもピアノがある。

両親が、私が小学校に上がるときに買ってくれたものだ。

イノセ楽器という聞き慣れないメーカーの、

Rosensteinというモデル。

私は親の命ずるままに、1年生から近所のピアノ教室に通い始めた。

しかし長続きはせず、

バイエルの下巻を最後まで終えぬままに

2年生の途中で辞めてしまった。


以後、両親が自分でピアノを弾くこともなく、

子供の私が完全に自己流で

弾きたくなったときに適当に鍵盤を叩くだけという

不幸な運命を背負わされたピアノだが、

両親は律儀にも、年に一度の調律を欠かさなかった。


普段は黒光りする板に隠された内部の構造が露わになり、

複雑ながらもアナログなメカニズムで

鍵盤の動きがハンマーに伝えられて弦を叩く様はとても興味深く、

私は調律の作業を眺めているのが大好きだった。

そしてその時、調律師が私に教えてくれた話が

ずっと、心に残っていた。




「オーストリアには、ベーゼンドルファーというメーカーがあるんだよ。

そのピアノの音には、魂がこもっているんだ。


ピアノはみんな工場で作られる。

普通は品質検査をしてそのまま出荷されるけど、

ベーゼンドルファーは違う。

専属のピアニストが、できたばかりの楽器をひたすら弾く。

すると急に、音に魂がこもる瞬間が来るんだ。

音がガラッと変わって、生きた音に変わる。

ピアノが自分の意志を持って歌いだす。

そんな瞬間が、急に訪れるんだよ。


それが、弾き始めてすぐの時もあれば、

いくら弾いてもダメなこともある。

100時間以上弾いてもその瞬間が訪れない楽器は、

また工場に戻されると決まっている。

そして、魂のこもったピアノだけが出荷されるんだ」


それは奇跡や魔法の類に思われ、

現実の話だとは、にわかには信じ難いものだった。


魂がこもると、ピアノの音は一体どんな風に変わるのだろう。

私は子供ながらに想像を逞しくした。

白黒の絵がカラーになるような感じなのか、

或いは、冷たいシチューが熱々になるようなものなのか。

それが瞬間的に起きるという現場に立ち会い

音の変化を体感してみたいものだと思ったが、

所詮自分のようにピアノ教室をすぐに辞めてしまうような子供には

感知できないものであるような気もした。


記憶力に問題のある私にしては珍しく、

克明に頭に刻み込まれた

ベーゼンドルファーという名前のピアノだったが、

実物をこの目で見たことはなかった。

ところが、ゴルトベルクの勉強会が行われたのは、いみじくも

そのベーゼンドルファーのショールームに併設されたホールだったのだ。


私は早速、店頭にいた女性をつかまえ、長年の疑問をぶつけた。

子供の頃に聞いた調律師の話は、果たして本当なのか。

そして、音に魂がこもる瞬間とは、一体どんなものなのか、と。


彼女は、自分では分かりかねると、

オーストリアの工場に出張したことがある上司を呼んでくれた。

しばらくして別室から現れたその方は、

100時間という明確な規定はないし、

音に魂がこもる、といった話も聞いたことはない、

と申し訳なさそうに教えて下さった。

ただし、工場から上がってきたピアノに対しては

かなりな時間をかけて調整を行い、

作業には当然ながら演奏も含まれている。

中には製造過程に戻されるものもあるそうだ。


調律師が、子供の私に分かりやすく伝えようと、

話をデフォルメしたのだろうか。

もしかしたらそれは、メーカーとしての規定ではなく、

調整を担当していたピアニストの内の一人の個人的な見解で、

それが職人たちの間で連綿と語り継がれてきたのかもしれない。


結局、長年抱き続けた疑問については

白とも黒ともつかない微妙な判定だった。

しかし、ショールームに並ぶピアノはどれも

新品でありながら長い時の流れを感じさせる輝きを放ち、

それが単なる工業製品ではないことは明らかだった。


そして勉強会が始まり、

髙橋氏が最初にアリアの冒頭部分を弾いた時の

ベーゼンドルファーの音は

軽やかでありながら深く心に届き、

目を瞑ったピアノが

気持ち良さげに歌を口ずさんでいるように感じられた。

私は、ようやく巡り合うことができた憧れの音に心を預けながら、

今ここに、あの調律師がいたら

この音色をどんな表情で聴き、

どう解説してくれるのだろうか、

などと思いを巡らせていた。






1月21日。

浜離宮朝日ホール。

生でゴルトベルグを聴くのは初めてだ。

1年に1度で、今回が10回目の節目となる

髙橋望氏によるゴルトベルグを聴こうと、

観客席は2階まで埋まる盛況ぶりだった。

ピアノはもちろん、ベーゼンドルファーのコンサートグランドだ。


ジャケットはなし、ワイシャツのみの姿で

髙橋氏はステージに現れた。

相変わらず気負いは感じられず、

勉強会で受付をしていた時と同じ自然体のまま。

深くお辞儀をすると、すぐに鍵盤に指が置かれた。


その演奏は、極めて丁寧で誠実だった。

楽譜には、曲の真ん中と最後に

それぞれ繰り返し記号が置かれている。

大概のピアニストはそれを無視する。

ゴルトベルグを収録したアルバムで最も有名なのは

文句なしにグレン・グルードの演奏によるものだと思われ、

私もずっとその盤を聴いてきたが、グールドも繰り返しはしていない。

しかし髙橋氏はバッハの書いた譜面に忠実に従う。

結果、演奏時間は80分にもなる。

休憩はなく、一気に32曲を弾き切る。

苦を厭わず、為すべきことを正面から見据え、実直に取り組む。

それは私にとって、初めて聞くゴルトベルクだった。


前週の解説により格段に解像度が上がり、

それぞれの曲のねらいが、曲集の全体構造が、

浮き彫りとなって感じられる。

バッハへの賛辞に於いて頻繁に使われる、

幾何学的な美しさ、という表現の意味も分かった気がした。

それは楽譜を単純にグラフィカルに見た時に

視覚的にも理解できると言われている。

確かにその通りではあるのだが、

実際に演奏を聴くと

あまりに美しい旋律そのものに気が取られてしまう。

しかしそれが、前半部2回、後半部も2回と繰り返されることで、

アラベスクのようなより様式的な音の紋様が

描かれていることに気付くのだ。


踊りたくなるような曲もあれば、

頭を抱えたくなるほど重々しいものもある。

勉強会の時、髙橋氏はこの曲集を

ちょうど作曲時にフランスで作られた

世界初の百科事典になぞらえ、

心の百科事典のようなものであると説明してくれた。

喜び、哀しみ、嘆き、祈り。

宗教的な部分もあれば、庶民の世俗的な心持ちも見て取れる。


髙橋氏の指先は、鍵盤の上で感情の万華鏡を回転させ、

変奏が展開する度に新たな景色を生み出す。

それはひたすら謙虚で内省的ものであり、

押し付けがましさは微塵も感じられない。

嬉しいからといって大笑いする訳ではなく、

哀しいからといって号泣する訳でもない。

時に大粒の涙よりも、

それを流さないようにと歯を食いしばる口元こそが

人々の心を揺さぶる。

悲しみのフレーズを愛おしむような微笑みで包みこみ、

歓びの歌の中にはそれがいつまでも続かない切なさを忍ばせる。

時に不条理でありながらも、

人間は自分に与えられた人生を受け入れる以外にない。

それでも、ひたむきに歩き続けるしかないのだ。


80分をかけ、心の扉を一つ一つ丁寧に開けてゆく作業も

終わりに近づく。

変奏の最後であるクオドリベットは、

今まで繰り返しCDで聞いてきたにもかかわらず、

全く違う曲に聞こえた。

人生の長旅を終え、帰還した者を

誇らしく迎えてくれる神の抱擁。

全ての紆余曲折が報われ、

自分というものをようやく肯定できた最期の瞬間。

真摯に生きてきた者だけが到達できる

高みからの見晴らしに息を呑む。




そして最後の、静かな静かなアリアへ。


何も持たずにこの世に生まれてきた幼子は、

長年培うことで、逆に自分の身を重くしていた

富や名声といったものをそっと地面に下ろし、

天に還っていく。


この曲をいつまでも聴いていたい。

終わってくれるな、と祈る。

そしてその祈りは、報われる。


名残惜しそうにひとつの輪を閉じるアリアは、

同時にまた

別の新たなる誕生を祝福する歌となるに違いない。


妙なる調べは永遠の輪廻を繰り返し、

人の子らの長き夜に

これからも寄り添い続けてくれるのだ。






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