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げもさんのnoteを読んで。

いいものを書こうとしない、ノークオリティライフ。修行僧のような気分でパソコンを開くだけ。

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なんでこんなに人のことを勝手に決めつけてしまうのかなあ。自分は。
とんでもなくパワフルで誰の目も気にせず突き進んでいるように見える画家さん(げもさん)と知り合って、かっこいいなあ、自分もそうやって生きてみたいなあとここ最近ずっとその人のことを考えていた。どうやったらああなれるんだろう、みたいな感じで。
でも、今日その人がnoteに書いている文章を読んで、あーもう自分の想像やら決めつけやらイメージやらってなんでこんなに凄まじく間違えるのだろうって思った。
その人だって誰かになにかを言われたりすることがあって、その度に傷ついていた。僕が少し一緒に話したりしただけで感じ取ったイメージとは全然違う繊細さを持っていた。そんなの考えたらあったりまえなのになあ。まだ全てを読めているわけではないし、全てを読んだからといってその人の全てを知れるわけではないのだけど、前よりもずっといろんなことを話してみたいし聞いてみたくなった。

そしてこの人の文章、めちゃくちゃおもしろい。これからまだ10記事以上あるので読んでいくのがめちゃくちゃたのしみなのだが。

言語化する力って、げもさんの文章を読むまで、論理的に何かを伝えられることを指すのだと思っていた。たとえば何かの悩みがあったときに、それを言語化しようと思ったら、「自分が本当は何に悩んでいるのか」「何にむかついているのか」ということを、視点を変えたり、立場を変えたり、むかつくって一体何なのか考えたりする。そうやって、いろんなところからその事象を観察することで、だんだんとそのことについての考えが深まっていくからだ。バシッと一言で何かを伝えることが「言語化できた」瞬間のような気もするけれど、その一言に行き着くまでには、長くて途方もない自己問答や、あてもなく続く文章、そして信頼できる人との長い長い会話が必要不可欠のように感じる。
この方の文章にもそういう、長い時間をかけて自己問答したり、いろんな人と一緒に考えてきた痕跡がはっきりと垣間見える。見たことのない文脈で、馴染みのないことばが使われたりするので一瞬ぎょっとするけれど、文章全体でみるとものすごく論理的で、めちゃくちゃ丁寧なのだ。何かが伝わる文章というのは一定以上の論理力がないとダメなのだなと感じる。
でももっともっとすごいのは、この人の文章は論理だけではないということ。そのぎょっとすることばが、ポンっとあることによって、論理だけでは行き着けない伝染力みたいなものを備えた文章になっているような気がしている。ぜんぜん文章と文章がつながっていなくて難解な部分もあるけれど、なんとなく伝わってしまう、なんとなくわかってしまう。天才だからだとか才能があるからだとか、そういうことにしたくない。ただ、その人自身のことばをその人がずっと探求しているからこそ、その論理を超えたことばが出るのだし、なんとなく伝わるんだと思う。

みんなに伝わりやすいことばも大切だけど、自分だけが納得できることばを見つけたっていい。自分で思いっきりボールを投げるみたいに、ことばをどかーっと飛躍させる。投げたボールを拾いにいくみたいに、ことばを論理で繋いでいく。たまにボールを失くすことだってあるかもしれないけど、萎縮して投げなかったり、手加減をして投げたりするよりはよっぽどいいんじゃない?
なんかぼくはげもさんの文章を読んでそういうことを考えた。そんなふうになりたいなあと強く思った。

僕がnoteを書くいちばんの目的は毎日書くことにある。おもしろくて自分らしくてみたいなことってめちゃくちゃ後回しで、何よりもまず毎日書くことだけしか意識していない。なので、ボールを遠くまでぶん投げるようなことはあまりできないでいる。
だからこそたまにでもいいから、ただ書くだけのところから少し飛躍したものを1週間に1個でも、1ヶ月に1個でも書けたらいいな。何かを考えるとき、何かをつくるとき、何かを伝えるとき、その他様々な場面で、どっかーんっとボールをぶん投げる訓練をしていることがめちゃくちゃ役に立つ時があると思うから。そしてボールを拾いにいく体力だけは、毎日書くことでついてきてると思うから。

みたいな感じで、すっごく影響を受けている画家さんのお話でした。あの、僕が紹介するのもおこがましいのですが、めちゃくちゃおもしろいし、きっとみなさんも何かが伝わってくるのを感じると思うので読んで欲しいです。

ということで今日はこの辺にしておきます。今日もいちにちエイオエイオー!

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