余った理性をポイ捨て

 寝息が愛おしい。

隣ですやすやと眠る兄を目の前に、深夜3時の月の光に照らされる弟は光悦な笑みを浮かべていた。

頬に優しく触れると兄は嫌そうに眉間に皺を寄せる。それすら何とも愛おしいものか。

人の死を5回目の前にした。事故、殺害、病死。骨になる前の人間の形をみて何度も嘔吐いた。

受け入れられない現実と、今世の別れとの対面。涙ではなく、吐物が溢れ出した。 

食事に手がつかない。味わう前に吐いてしまう。兄はそんな弟を心配し、自ら食べやすい食事を学び提供してくれるようになった。

最初は全く食べられず、手もつかず。途中から1口は食べるようになっていった。弟は自分の為に行動してくれる兄に心が引き寄せられた。

「…兄さん……」

いずれくる別れを思うと吐き気がする。強い拒絶と不安感。身体の芯から冷えていく感じ、寒い夜に凍えながら眠る感じ。血液が循環をやめそうになるあの感じ、呼吸が徐々に浅くなるあの感じ。

受け入れられなかった。兄の勧めで精神科に通院し、精神科医から「いずれ、人間は死にますよ」と正論を叩きつけられても受け入れられなかった。精神科医の目の前で吐くぐらい、受け入れられなかった。

置いていかないで欲しいわけでもないし、その結末に至るのは自分でももう分かっている。しかしそれでも受け入れられないのだ。

死んでほしくないと願ってしまうのだ。

弟は目の前の兄の顔を見る。優しいこの顔がいずれ目を開けなくなる。そう思うと肺が圧迫され、心臓がドクドクと速まった。

そして猛烈な吐き気。布団から起き上がり急いでトイレに駆け込んだ。便器の上で顔を歪ませながら吐き気に答えるのもこれで何度目だろうか。

処方された薬は効果がない。精神が参ってる訳ではなく物理的に参ってるからだ。

ぐるぐるする思考を目の前にした時、ひとつの考えがピコンと効果音を鳴らし浮かんだ。本当にひとつの考えが突然浮かんだのだ。

その浮かんだ思考に弟は"それしかない"という猪突猛進理性が働いた。トイレを流し、フラフラと廊下を歩く。

リビングから魚を捌く包丁とまな板を手に取り、寝室を足を運ぶ。早くからこうすれば良かったんだ。不安を除去するにはこれしかないんだ。働いた理性は徐々に狂っていった。振り上げる包丁を前に、兄は呑気に眠っていた。














「いただきます」

 ナイフで焼き上げたお肉を切り、フォークで刺して口に運ぶ。咀嚼すると柔らかい感触と鼻を刺激する風味が訪れ、思わず目を見開いた。久しぶりの味に感動してもう一度お肉を口に運ぶ。

「おいしい…。」

あえてシンプルに焼いたお肉。お肉だけの味を楽しみたくて味付けは何もしていないしフライパンに油すらひいてない。正解だ。とっても美味しい。

「…………ふっぅ…うっ……」

いつぶりかわからない涙が溢れ出した。蛇口を捻ったかのように溢れ出しては止まらない。せっかくのお肉に涙がついてしまう。そう思いながらも止まらなかった。思い出が脳に流れ込んでくる。料理中は考えられなかった事、たくさん流れてくる。余った理性が動き出した。 


「にいさん……」 


お肉の味は美味しいのに状況は全く美味しくない。吐き気はないのに涙が止まらない。兄を喰べた。跡形もなく喰べたのだ。

弟は口元を抑え、後悔と闘った。

「ごめん…ぜんぶ、たべてしまって。」


おいしくて全体をすぐに喰べてしまった。せめて明日用に頭部だけ残して、頭部を布団付近に飾ればよかったな。折角の久しぶりの食事だったのに。ゆっくり味わいたかったのに。起きてしまった失態に後悔する。

弟はうっとりとした顔でまだお皿の上に余ったお肉を見る。兄を喰べた、つまり兄は自分の中で生き続けるのだ。永遠に一緒にいられる。どうしようもない不安感もそれで消えていくような感覚だった。お腹をさすり、兄さんと呼び掛けた。

折角の貴重な食材が骨になる前に喰べれてよかった!永遠に一緒に居ようね!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?