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連続小説MIA (75) | Chapter Ⅳ


悪くない部屋だ。晶馬はジェイコブと顔を見合わせ、うなずきあった。「ジェイコブ、この部屋で良いかな」座り込んで、絵の具の跡を指で触っているジェイコブがこちらを向いて頷く。「いいと思うよ。アーティスティックでいいじゃん」「この部屋は、以前に絵描きがアトリエとして使用していたんですよ」不動産の担当者は続けた。「一階は鮮魚店でした。いま洗濯室となっている場所は以前は魚をさばく加工場として使用していたと聞いています。チャイナタウンのこの辺りも数十年前とは様変わりしていますが、この場所もなかなか歴史ある建物なのです」その物語は、晶馬とジェイコブを喜ばせた。まだ空っぽのワンルームをもう一度見つめなおす。人が生き、創作し、作品を制作した場所である。長い歴史のなかで数か月足らずであるものの、自分たちがその一部として関わることができることに、心が躍った。

その晩、晶馬はジェイ(ジェイコブをジェイと呼ぶことにした)と、無事に入居先が決まったことに祝杯を挙げた。マーケットで手に入れたオージービーフとブロッコリーを調理し、量り売りで買ったチーズの盛り合わせを付けてタスマニア産の赤ワインで乾杯をした。食材が豊富にかつ容易に手に入ることはとても魅力的だ。(チャイナタウンでは鰹節など日本の調味料も見つけることができた)「目標は一日50ドル稼ぐことだな。明日から早速オペラハウスへ行ってみるよ」アルコールも回りことさらに饒舌になったジェイが語る。ディジュリドゥは、オーストラリアの民族楽器だ。ここが本場である。ジェイにとって、憧れの地で楽器を演奏できることはとても嬉しいことに違いない。「晶馬はどうするんだ?つまり、何かパフォーマンスをするのかって意味だけど」晶馬は。うーん。と唸った。何かを言い淀んでいたわけではないが、ジェイのようにはっきりとした行動を定めていなくて困ってしまった。「まずは、この部屋の掃除かな」「まじかよ。でも晶馬ってそういうタイプの人間かも。あ、悪い意味ではないよ」と言った。「フレッドおじさんは良さそうな人だな。このテーブルも出してきてくれたし」「そうだな」僕たちはこのアパートメントのオーナーであるフレデリック・チャンのことをフレッドおじさんと呼ぶことにしていた。フレッドおじさんは、僕たちが入居することを決めたことを喜んだ。それはただ、空室が埋まったというだけの安心感からくるものではなく、晶馬とジェイをどことなく気にいっているような、そんな印象を受けていた。それらの会話の後、ジェイは酒に酔って寝てしまった。食べ残しの料理は明日の朝まで持つだろうか?冷蔵庫がないかどうか、オーナーに聞いてみないといけないな。食器を流しに置いて、洗い物をした。自室(窓際のベッドエリアのこと)へ向かうと雑踏から聞こえてくる音々が心地よい。薄いカーテンを開けるとチャイナタウンのネオンサインがよく見えた。晶馬は煙草に火をつける。晶馬は思った。何処でもない場所に自分はいる。逃げるでもなく、抗うでもなく、流れ流れてたどり着いたこの場所を好きになれそうな気がしている。知らなかった街。知らなかった人。知らなかった自由、それと責任。知ることで、また新しい知らないことに出会う。手つかずの自分がここにいたのだと晶馬は知った。

つづく(※平日の正午ごろに連載を更新します)

 (*The series will be updated around noon on weekdays * I stopped translating into English)

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