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連続小説MIA (80) | Chapter Ⅴ

晶馬は小籠包店の看板娘と話をしたいが為に、日常中国語会話の初学本を探していた。英語/中国語は町の書店に置いてあったが、日本語/中国語の本は見当たらない。そこで、日系大手の紀伊国屋書店シドニー店へ向かうことにした。ここでは、フロアの一角に日本語書籍コーナーがある。小説はもとより、日本の雑誌も数多く手に入れることができた。ファッション紙からビジネス誌までかなりの品揃えだ。この街にそれだけたくさんの日本人が住んでいるということなのだろう。ただし価格は高い。店頭販売価格が定価の2倍〜3倍になっているのは、関税がかかっているためである。オーストラリアでは、コークや煙草をはじめとして嗜好品には高い税金が課せられるが、書籍まで高価であるとは。ぶらぶらと文庫コーナーに行き、目についたところの文庫本を手に取る。それは、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」だった。人に薦められてはじめて読んだ村上春樹の本だった。何気なく棚を見ていると、村上春樹の作品の間に司馬遼太郎の「坂の上の雲」が棚からはみ出る形で刺さっていることに気がついた。誰かが手に取ったあと、面倒くささから適当に置いていったのだろう。しかし、すこしはみ出させているところに意図を感じた。本を戻そうと思ったんだけど時間がなくってとでも言いたそうな雰囲気だ。この状況、放っておいても、店員であればすぐに気が付くはずだったが、晶馬は元の場所へ戻しておこうと考えた。日本の書店で同じ光景を見ても何もしなかっただろう。けれど、見てしまった以上は妙な因縁を感じてしまった。あるべき場所に戻さずにはいられない、これも日本人たる所以なのかしらと思った。そうだ、村上春樹で思い出す人々がいる。彼、彼女たちについて少し話をしよう。
 晶馬はオーストラリアへ入国をした最初3か月間、日本人オーナーのレストラン店に住み込みで働いていた。その店にアルバイトに来ていた地元高校生のベンジャミン(以下、ベンと呼ぶ)とは、お互いがギタリストであることを切っ掛けとして直ぐに打ち解けていた。年齢が近かった僕は、よくベンの家へ招かれることになる。リビングの本棚には、村上春樹の英語版が置いてあった。ベンの両親が親日家のようで、ほかにも壁に日本の伝統的な凧やらお面やらがぶら下がっていた。ベンの家には、トーという名前が付けられた、イングリッシュ・グレイハウンドの犬がいた。(toe:つま先の意味。また、同名の日本が誇るポストロック・バンドがあるが、名付けとは関係がない)トーは、よくギターのハードケースの上に寝そべって上目遣いでこちらを窺っていた。英語圏では、犬も英語を理解して生活しているのだろうか。それだとしたら、僕よりも英語力があるはずだ。そもそも、犬は言語を理解しているのか?などと、どうでも良いことを考えながら、マグカップで薄いインスタントコーヒーを啜っていた。

つづく(※平日の正午ごろに連載を更新します)

 (*The series will be updated around noon on weekdays * I stopped translating into English)

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