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教会

 教会に辿りつけない。
 彼は窓の外にぼんやり目を向けた。ホテルの窓からは石造りの街並みが見渡せる。教会の尖塔は街の真ん中に、壊れたベッドのスプリングのように突き出ていた。
 風雨にさらされた灰色の街も教会も、それなりに無骨な美しさがある。だが彼は詩心もなければ、風景を紙に写し取る指もない。代わりに彼はこの二週間ずっと歩き回っていた。
 いつか母の病院の待合室で見た雑誌の写真を思い出し、彼は有り金をはたいてここへ来た。くっきりとした石の輪郭を持ちながら、奥は隠れている、その迷路をうろつくことを、彼は無理に旅と名付け、最初は楽しんでいた。
 なのに、彼はいまだに教会に行けていない。初めての場所にひょいと出た瞬間の、あの彷徨い人だけが味わえる特権のような高揚に、彼はいまだ与ることができていないのだ。
 疲れ果て、彼はついに休むことにした。今日は一歩もホテルから出るまいと思い、木の椅子をがたがた窓際に持ってきて、彼は教会を眺めている。
 どうして教会に行けないのだろう。あんなに目立つのに。歩き回っている時には、教会の尖塔は高い家々の向こうから彼を覗き込んでさえいるくせに。
 教会は、地図の上にも確かにあった。でも住人に聞いても要領を得ず、どっちへ行っても教会の足元は見つからない。こっちの道だと囁く心の声に従うと、どういうわけか教会は遠ざかっている。あっちの道だと声高に主張する、肩の後ろの声に従うと、見たことのある道に何度も行きつく。へとへとになった彼は、妙に馴染んだカフェの椅子に座りこむ。
 母のせいだ、と彼は陰鬱な気分で考えた。郷里の安ベッドで母は息を引き取った。魂が居場所を間違えぬよう、墓に名前も刻んでやったのに、母はいまだに彼の耳元で、一挙手一投足に文句をつけているのだ。ここにはもう、薄汚れた壁紙も、風にガタガタいう窓もないのに。
 白い雲に切なく指を伸ばす尖塔を見ながら、彼は想像する。明日はあの道を行ってみよう。この間見つけたあの脇道を試すのだ。
 いやそれよりも、と彼は考える。自分の心の声も、肩の後ろの声も無視してみよう。すべての声を聞かなければ、教会は見つかるだろうか。
 見つからないだろう。彼は奇妙な希望を込めて、再び教会を見た。
 明日は教会ではなく、あのカフェに行ってみよう。白茶けた求人の貼り紙がまだ有効かを聞くのだ。
 あきらめたままこの街で、すべての声が聞こえなくなった時、もしかしたら。
 彼はベッドへ行き、靴を脱ぐと、毛布の下にもぐりこんだ。





初出 ネップリ 創作文芸同人誌『鯨骨生物群集』 vol.7 2022年秋号)
ポテチが食べたいです。↓

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