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読書日記:『「私」を生きるための言葉–日本語と個人主義』泉谷閑示著

 精神科医をされている著者が、ご自身の臨床経験から得られた知見を入れて、患者たちが回復していく中で「自分の言葉」を得ていく過程で起こる煩悶について夏目漱石の思想を辿って書いておられた。

 夏目漱石は苦悩した人であったようだが、彼の論じた「自己本位」「個人主義」「則天去私」のお話がふんだんに紹介されておりとてもおもしろい。

 世間に流され、自分で考えるということをしない人間のことを0人称の人間と呼ぶ。
 0人称の人たちは拠り所とする規範が「空気」「思想もどき」であるため、都合よく「自由」や「権利」という言葉を使って、「そと」の人間の「自由」や「権利」を蹂躙してしまう。そういう状態というのは個人主義ではなく利己主義であり、個人主義とは似て非なるものであると書かれていた。自由と自由がぶつかりあっている今の社会や自分の身の回りを考えるにはもってこいの内容だ。

 借り物の知識や考え方で武装し、他人に賞賛されたとしても、自分自身の内側から=一人称の自分から発せられたものではない限り「いつまでたっても安心できない」というところは本当にその通りだと思った。承認欲求に振り回されていると、自分の価値は周りが決める、周りの評価で自分の尊厳が左右されてしまう。自分の尊厳が相手次第で決まるということはとても不安定だ。

 個人主義になるということは、承認欲求を満たすことに腐心することから自己実現欲求を満たす方向にシフトすることなのかななどと思った。

 それぞれが個人主義となり自由を謳歌する場合、必ずと言っていいほど意見のすれ違いが起こる。
 一人称を得た個人が社会を生きるために欠かせない条件についても、漱石が論じたところでは

 1、秩序を遵守する義務を伴った上での自由であることをわきまえていること。
 2、群れない淋しさを個人として引き受けること。

なのだそうだ。それは「人格」として論じられているそうだ。
言い換えて良ければ、自由にはそれ相応の責任が伴うこと、そして自由と孤独はセットということだろうかなどと思う。

 『孤独と愛』『資本主義に徳はあるか』といったタイトルだけで引き込まれる書籍からも引用がなされており、とても勉強になった。

 一人称の人間になって初めて他者の発見ができる。
 自分と相手は違う人間である、ということは一人称にならなければできないこと。
 その上で、相手の中に自分と似た部分もまた発見し、一人称を経て「超越的0人称」になるのだそうだ。「自分であって自分でない」という状態で、夏目漱石の言う「則天去私」も、そのことを示しているようだ。

 個人主義、自由を謳歌するには漱石の言うところの「人格」が必要で、それは「徳」と言ってもいいのかもしれないという感想を持った。

 相手の尊厳を蹂躙する「自由」も、今のご時世あるのだろうが、そこに徳はありますか?それは個人主義ですか?それとも利己主義ですか?と問われている時代でもあるなと思う。

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