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理解せよと人は言う

Twitterで、新聞にエモい記事が必要なのかどうか?エモい記事が増えすぎてはいまいか?それは新聞の役割としてどうなのか?というようなテーマが目に入って、数日色々考えたので思いつきをぽつぽつとツイートしていた。

IQが高い人はEQが低いという揶揄は結構昔からあるもので、私はIQが高いかはさておき、中学まで成績が良かった際、勉強が嫌いな人の痛みがわからない、人の弱さを許す心の柔らかさがない、温かさがないなど色々と言われてきたことを思い出した。

まあ、本当にそうなんだろうなと思う。
ずーっと言われてきているから。

と同時に、そういう私の心と痛みを理解する人もそんなにいませんけどね、と心の中で反論している。

カウンセラーに相談すると、話はいくらでも聞いてはくれるが、最後は「相手の心情を理解せよ」に行き着くのである。

理解せよと人は言う。
その人自身はどれだけその相手を理解しているのか?私の気持ちは理解されないのか?

ついついエモい記事を量産する新聞社寄りの発言をしていたのは意図的ではなく、無意識で、エモさに寄る新聞社の傾向に自分の気持ちを投影していたのだろうと思う。勝手に。

新聞社の本当の意図は全く無視で、結局自分自分になるのはいつもの私の悪いところだろうなと思う。

意識高い系という言葉はそんなに昔からある言葉ではないと思うが、まあ政治とかに興味がある私は小さい頃から胡散臭いやつみたいな、あるいは先生に褒められたいから関心のあるふりをしてるのでしょう?というような見方はされてきた。

勉強が嫌いな人が不快なならないように振る舞わなくてはならない。私はなんせ偉そうなのだから。

新聞社の意図を本当に理解するのは私は不可能だけれど、なんとなく新聞社の戦略としても、意識高い系だと売れない、共感を得られないから方針がエモに寄っているのではないか?

そう思ったのは、私自身が人を不快にさせる要素が他の人よりかなり多めであるという運命を引き受けて、トライアンドエラーし試行錯誤している最中の人間だからだ。

投影された新聞社さんははた迷惑かもしれないけれど。

いつも正しくあれ、という圧をかけられて、その運命を引き受け、と思えば完璧じゃなくていいなどと甘い言葉を信じて本当に力を抜いたら、そこから粗探しをされまくる。

そういう人や主体にどうも私は同情しがちである。

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