落語の「演じる」と「語る」

YouTubeでとある名人の噺を聴いていたら、コメント欄に「圓生は演じるで、正蔵は語る芸だ」というのを見つけて、なるほどなと思った。

そもそも演じると語るはどう違うのかという話だが、僕の中での解釈は「演じる」というのは気持ちが先に出てくる喋りで、「語る」はセリフが先に出てくる喋りということになる。

そういう意味で言うと、確かに正蔵(八代目)師匠は語る芸だったように思う。セリフが先にあって、型があって、後から気持ちがついて行く感じ。

圓生師匠ももちろん、言葉運びは巧みだけど、感情が先にあってセリフが出ているように感じる。志ん朝師匠もそうですね。なので二人は演じる芸。小三治師匠も演じる芸。志ん生師匠もそう。

文楽師匠は語る芸の最たる例。先代可楽師匠も語る芸。

三代目の金馬師匠は語る芸なんだけど、演じも入る。

結構ニュアンス的な部分はあるけれど。

演じると語るは分類すると面白い。

僕はどうかというと、これは明確に人情噺は演じる芸に振れて、滑稽噺は語るに振れながらところどころ演じるに振れる感じ。滑稽噺の中での演じる部分は、多分工夫してるとことか笑いに持って行きたいとこのような気がする。

確固たるスタイルも大事だけど、噺によって感じたままに喋るのが僕のスタイルな気もする。

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