高座から遠ざかって見る景色
はな平です。無職です。
久しぶりに高座に上がると最近はそんな第一声から始めてます。これがまあ受けるんです。たぶん。反応は画面の奥の茶の間ですのでわかんないですが。
4月以降高座が二週間に一回のペースになりました。
と言っても高座だけど無観客生配信なのでそう呼べるかはわかりません。
三月に高座が無くなって、必死こいて毎日配信しておりましたが、こうやって高座から遠ざかって見るとまた違った景色が見えてきます。
数が減った分、前以上に尊いものにはなりましたね。間違いなく。だけど下手にはなっていません。もちろんうまくもなっていません。
下手になっていないってのは単純なことで、例えばカレー屋さんが一ヶ月カレーを作ってなくてもカレーが作れるように、落語がまるっきり出来なくはなっていない。そらそうですよね。10年以上喋り続けて来たわけですから、一ヶ月そこらでいきなり出来なくはならない。
上手くなっていないというのは、これはさっきの逆で、毎日喋っていないから、余裕がないんですかね。ニュートラルのギアの部分がないんです。余裕を持ってアドリブで喋れるようなところのギアにいれられないわけです。いつもドライブに入って必死に喋っている感じです。
でも今やっている高座作りについて間違ってないと思うのはやっぱり生配信にしていることですかね。緊張感が違います。お客さんもどうやらそれが良いみたいで、もちろん実際聴いているのとは違うでしょうけど、今しか観られないというのが、実際の公演に近づけているのかなと思います。
でやっぱり自分の高座ですが、どうやらかなり丁寧に喋っているみたいです。
毎日毎日高座があった頃と比べると、小さい会でさらって、大きい会でいざ本番みたいなことが出来ないんですね。なので毎回(と言っても本当にたまに)が本番(当たり前ですけどそう出来ていなかった部分もありました)と思ってやれるようになりました。
今回の騒動は、落語家全員自分を探す旅が出来ると思います。どう生きて行くかを考える時間がこんなにあるわけですから。落語はもちろん人生について深く考えられます。
高座がたくさんのあったあの頃にはこんなに毎日考えていませんでした。毎日、目の前の高座に追われていて、だけどそれは追われているんじゃなくて、ただ高座を消化していただけなんじゃないかとさえ思ってしまいます。
五年前のFacebookの今日5/6の投稿に「今日が誕生日。高座が出来ました。僕が誕生日にしたいことは落語です。来年もその先も誕生日には落語がしたい。」と書いてあって、今日は生配信でしたけど、高座が出来て本当に良かったと思いました。
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