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落研時代は柳家に傾倒

道灌で落語を知る

落研に入ってすぐに先輩がカセットテープを渡してくれます。つまりそれが最初に覚える噺だということです。そのカセットテープが僕の運命を決めていくことになるとはその時は思っていませんでした。

道灌という噺は堅い噺で並の前座二つ目じゃ受けません。かの小さん師匠はこの噺でトリを取ったと言いますが、これは名人だから為せる技です。そんな面白くないはずの道灌ですが、僕の渡された音源の道灌は面白かった。内容でなく、落語の空気感と間と、全て僕が生きてきて味わったことのないような世界がそこにありました。

面白いのは当たり前です。小三治師匠の音源だったからです。初めに出会った音源が「小三治の道灌」という経験が落研時代の落語の好みの原点となりました。そもそもウチの落研はルーツが小さん師匠なので、先輩方も柳家が大好きだしシンポウしている方が多いので、その音源が山ほどありました。その流れで小三治師匠のもたくさんあったんです。

「道灌」の枕から本題全てを完コピしようと思いましたね。なんか喋ったことのない「はっつぁん」(最初はこの「つぁん」が新鮮)という言葉やそのほか江戸弁独特の言い回しが、めちゃくちゃ気持ち良かったのを覚えています。福岡から出て来てまだ間もない頃でしたから、普段は訛りもあるし、博多の方言が出ちゃうような奴がいきなり、ちゃきちゃきの江戸弁を喋ろうとするんですから、そらおかしな光景だったでしょうね。

あくび指南で落語が現在だと知る

そこからはもう小三治師匠を聴き漁りましたね。道灌は古さの中にあるおかしみを感じましたが、そのあと聴いたあくび指南でもう頭を殴られたような衝撃を受けました。僕が好きなお笑いだとかコントだとかってものの世界が落語にあることを知りました。あくびを教わりに行くなんてナンセンスなシチュエーションは今の笑いと変わらないと思いました。それと同時にすぐにわかったことは落語は喋る人が違うだけで、全て変わるんだということです。内容以上に演者に依存する。それを感じ取りました。

以前行った新宿末廣亭や先輩の落語を聴いて、それだけはすぐにわかったんだともいます。不思議とこの古典落語の世界が僕にはとても心地良くて、古いのになんでこんなに今の僕が聴いて新しいんだと思ったら、喋る人が常に現代の人だからじゃないかと思いました。現代の人が現代の枕から、古典落語の世界に入っていく。みんな現代人のフィルターを通して落語を語るから古い話なのに新しく聞こえるんだと思いました。なので、最初から古典落語新作落語という色分けに違和感を感じてましたね。全部落語じゃんっておもってました。

短命で落語の可能性を感じる

小さん師匠で一番好きな噺は「短命」です。話を理解できない男がただひたすら「なんで?」を繰り返す。僕もこの噺を聴いた時、なんでかわからなかったので、主人公の気持ちがよくわかりました。こういう体験が僕の落語の原点で、今でも落語をやる上で一番大事にしていることです。わかりやすくやるということは、言葉を横文字にするとかセリフを増やすとかっていうことではなく、親切な喋り方をするという感じでしょうかね。それ以上はなかなか説明が難しいですが、このわかりやすくやるのはとても大事です。

短命に可能性を感じたのは、今思えばたまたま短命なんですが、つまり落語のアレンジが無限にあるということを思ったからです。押し引き、セリフ、上下、展開、どれをどう動かしても短命は短命なんです。落語は落語なんです、どうなっても。そんなことを、一年生の僕は部室で一人考えていました。落語をまだたくさん聴いていないのに勝手にわかったような気になってバカな気がしますが。でもその時は部室で本当にニヤニヤして、落語の世界がまだまだたくさんあることを知らずに呑気だったと思います。

こうして落語に目覚めた僕は、落研時代確か20席くらネタをやりましたが、そのほとんどが小さん師匠と、小三治師匠で覚えました。落研時代の話はまだまだありますが、今日は柳家大好きなお話でした。

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