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落語にメッセージ性は必要なのか?

落語をやる上でメッセージやテーマは必要なのかと思うことがあります。

もちろん要る場合もあります。仕事の依頼が純粋な落語会じゃなくて、企業のセミナーとかあるいは葬祭場のイベントだったり、最初から目的の中にテーマが存在する場合は、「こういう噺が合いますよ」と言って出す場合があります。

それは、別として今回は落語をただ「落語」として考えた時に、メッセージ性が必要なのかということを考えてみたいです。

あくまで私が思うことで、落語についての正解はまずありませんので、そのつもりでお読みください。

結論から言うと、私はメッセージ性は必要ないと思っています。

よく私たちがお客様に「落語は想像の芸です。落語家が演じて、残りの半分はお客様の想像に委ねられています」(表現は色々あります)みたいなことを言います。ここに、私は答えがほとんど入っているような気がしていて、つまりお客様に想像してもらうということは、こちらで落語の種明かしをし過ぎない方が良いんじゃないかってことです。

芝浜は「夫婦の情愛」の噺なのか

「芝浜」という古典落語があります。このネタは落語における人情噺の中でも一番有名で、やる人も多いし、いつからか壮大な噺になっています。やる方も聴くほうも肩に力が入ってしまうような、そういう空気が嫌で「やらない」というある師匠の話を聞いたことがあります。

さて、この噺は三題噺と言われていて、三遊亭圓朝作(諸説あります)となっています。そう、元は三題噺なんです。

主人公が芝浜で五十両入った財布を拾った→酔った亭主に妻が「それは夢だ」と嘘をつく→改心して酒を辞めて一生懸命働いて三年経つ→三年前の嘘を妻が告白して…→「お前さん、機嫌直しに飲んでおくれよ」「よそう、また夢になるといけねえ」

というおはなしです。僕もこの噺をやる時に、バルザックという作家さんの言葉を引用して「『女性というのは善良な夫を作る天才に違いない』と言った方がおりますが、そんな言葉が生まれた頃の江戸のお噂で…」なんてキザな入り方をしていることもありますが、これも必要ないんですよね。

この枕を入れることによって、妻が夢だと嘘をつくことが「善」であると誘導してしまうというか、そういうものだと思ってお客様が聴くしかない状況を作ってしまうような気がします。

メッセージを先に伝えると、お客様の感じ方、想像の幅を狭めてしまうのではないかと思うんです。

噺に主人公はいない

主人公も明示する必要はないと思います。「この噺は、この人の物語だ」と言われると、もうそういう聴き方しか出来ません。他の登場人物は脇役だと刷り込まれちゃうような気がします。

たとえ与太郎の噺でも、それ以外の人が輝いて聴こえたとしても、それはお客様の自由なんですね。

私が落研時代にまだあまり落語を聴き慣れない時は、先入観がないですから、「この師匠がやるこの噺は、〇〇が主役に感じるけど、他の師匠だと違うな」なんて聴いてました。

落語ってそういうものなんですよね。ただ、噺があってそこにいろんな人がいて、お客様が自由に感じて。

要るのはあらすじだけ

必要なのはあらすじだけだと思います。これは単純に、初心者の方に向けて、どんな噺なのかというのを伝えるのにはあった方が良いですよね。

だから、その噺の内容に少し触れる。だけど、そこにメッセージを盛り込まない様にした方が良いですね。

「文七元結」というネタのあらすじに、「情けは人の為ならず」と入れたら、どう感じるでしょう。この噺はそういうものだと思って聴いちゃうんではないかと思います。

なので、あくまであらすじだけがあった方が良いような気がします。

で、「文七元結」を聴いた後にお客様の中で「『情けは人の為ならず』って言葉あったよな」って思うのか、はたまた「娘を売った五十両を人にやって、酷いことしたのに、最後はハッピーエンドになって、普通はこんなことねえぜー!?」って思うのか、その想像する幅が落語の面白さだと思います。

ある師匠の言葉

以前、ある師匠から聴いた言葉がとても印象にのこっています。

「俺、落語をやるのになんの思いもないんだよね。この噺にはこういうメッセージがありますよって、考えたこともない。ただ、喋ってるだけ。毎回、違うもん。だから、このネタはどんな思いでやってますか?って聞かれるのが一番困るんだよね。何にも考えてないから。ただ、噺の登場人物に喋らせて、面白くなったらそれで良いやって感じ。それの方がやる方も聴く方も楽しいでしょ」

名前は控えますが、中堅の真打の方で、寄席にも日々出演していて独演会もバンバン開催していていわゆる売れっ子の師匠の言葉です。

この言葉を聴いてから、落語会のチラシにキャッチコピーを入れたりするのは極力やめる様にしました。それと、噺について深く掘り下げるときも、「この噺はこういうものだ」と決めつけずにやるようにしました。この人物が浮き立つ時があってもいいし、違う人が躍動しても良いし、といろんな可能性を考えた方が噺自体が面白くなると思う様になりました。

最初からテーマを決めてしまうと、噺の向かっていく先がそのテーマに突き進むので、噺が窮屈になるんですよね。

答えが先にあって、そこに向かって喋って行く様な感じより、あまり深く考えずに自由に喋って言った先に、その日の落語の答えが出てきた。みたいな落語が理想ですね。

現代と落語

そう思いながらも、最近は落語にテーマとかメッセージをつけたがる傾向がある様な気がします。その方が、取り上げやすということなんだと思います。メディア等で。

歌舞伎が好きでよく観に行きますが、歌舞伎の内容って、それこそコンプライアンスに引っ掛かるどころじゃない、かなり激しい場面が出て来ますし、差別的なものも出て来ます。

だけど、「あの演目はこういう差別をしているから止めろ」なんて誰も言いません。みんな、その時代のものとして見ているし、それを現実と結びつけようなんてあまり思いません。ただ、作品と様式美を楽しんでいる様に思います。

だけど、落語の場合は違う時があります。

江戸時代の噺をしていても、言葉が現代語だからか妙にリアリティーがあって「今」と結びつけたくなる傾向があります。吉原とかお妾さんが出てくる噺がしにくくなっているのはそのせいかもしれません。「お直し」「五人廻し」なんてのはいつしかやらなくなるやもしれません。

当時の価値観の中で、その時のことをやっているだけなのに、今の価値観を持ち込むと違和感を感じてしまう気持ちはわからなくはありませんが…


今日は「落語とメッセージ性」について考えました。あくまで私感です。

落語について、また過去の思い出等を書かせて頂いて、落語の世界に少しでも興味を持ってもらえるような記事を目指しております。もしよろしければサポートお願いいたします。